この道の先に
『海坊主』
「この道の先に行くなら、海坊主に気をつけな」
通りがかりの漁師に呼び止められた。
私は岬のはずれにあるという幻の料亭を目指し、一人海沿いを歩いていた。
海坊主というのは海に住む妖怪の一種である。
海沿いを通る人々に問答を仕掛けて惑わせ、海に連れ去ってしまうのだという。
海坊主の風体は、タコの様なテカった顔に縮れ毛、不敵な笑みを浮かべた老人だそうだ。
私は漁師に礼を言い、焼けるアスファルトを踏みしめて更に歩いた。
しばらく進むと、私はそれらしき妖怪に出会った。
それは漁師が言っていた通りの風体だった。
が、私はその男に見覚えがあった。
岬の遊歩道に立っていた男は、井上陽水そっくりだった。
というより本人だった。
黒のサングラスにアロハシャツを着ていた。
「探しものは何ですか?」
井上陽水は言った。白い歯が眩しい。
私は黙った。海坊主は人語を語るが答えてはいけない。
そう言われていたから。
「見つけにくいものですか?」
私はただ首をふった。海坊主に対して頷いてもいけない。
漁師からは、そうも言われていた。
「夢の中へ、行ってみたいと思いませんか?」
陽水がつぶやくと、どこから現れたのか、屋根付きのテラスとテーブルが現れた。テーブルの上には唾があふれてきそうな海鮮料理がずらりと並んでいた。
陽水は海坊主ではなかった。彼は、知る人ぞ知る料亭のシェフだったのだ。
「エビ、食べいこう」
私は焼きエビ、蒸しエビ、刺身とを、次々にほうばった。
それらは今まで食べたどんなエビもかすむ、極上の一品だった。
「もっと食べて」
陽水が言う。白い歯が蜃気楼のようにふわふわと笑っている。
「ウニ、食べいこう」
私は正直ウニという食べ物があまり得意ではない。
しかし、そのウニはあまりにもクリーミーで、舌の上を涼やかに滑った。
それはまさに潮騒のアイスクリームのようだ。
「食べて、もっと食べて」
陽水のサングラスが入道雲を反射している。私の心は、夏模様。
「カニ、食べいこう」
私はカニにかぶりつこうとして、うっかりテーブルの下にカニ足を落としてしまった。
そして思わずギョっとした。
私の足が無かったのだ。
正確に言うと、足が魚の尾鰭になっていた。
腰のあたりを触ると鱗があった。
私の身体は、じわりじわりと魚になっていた。
「割り切って行こう」
陽水がうんうん頷いて笑っている。
これは駄目だ。
食べちゃいけないやつだ。
でもカニは食べたい。
限りない欲望。
「食べません」
私は振り絞るように言った。
その瞬間、晴れ渡っていたはずの空が黒くなりピカっと稲妻が走った。
一瞬にして嵐になった。
陽水は困ったように天を仰いだ。
「傘がない」
滴る水滴を拭いもせず、とまどい右往左往した。
不意に陽水が翼を広げた。そんな風に見えた。
そこにいるのは一羽の巨大なペリカンだった。
ペリカンは私に目もくれず、残された料理を喉にガツガツと詰め込んでゆく。
そして嗚咽するような咀嚼を終えると、雨にうたれながら岬の彼方へと飛び去った。
ペリカンが見えなくなると、先ほどまでの嵐が嘘だったかのような快晴に戻った。
身体だけがずぶ濡れだった。
ぬかるんだ地面をトントンと踏みしめ、元通りになった脚をさすった。
お題:子供の頃は
『恐るべきコモド達』
コモドの頃はよく、近所の鶏を襲って食べていた。
生きるのに必死だったのだ。
僕には3つ上の姉がいた。
村人から見れば似たような見た目だっただろう。
なんてったって、コモドドラゴンなのだ。
〈未稿〉
日常的非日常
知らない天井。当たり前か。
起き上がり、まずは自分の手を見る。
しなやかで細い手首、色素が薄く白い。
鏡を探す。自分の全体像を確認する。
薄ピンクのパジャマをまとった自分は、おそらく10代半ばの少女だった。
時刻は7時半をまわったところ。多分、朝。
部屋を物色しようかとも思ったが自重する。
経験上、そういった好奇心はいらぬトラブルを招く。
もう一度ベッドに横になり、時計の針の音に耳をすまし、目を閉じる。
8時を過ぎた頃、母親らしき女が部屋の戸をノックする。
「あんた、今日学校行かないの?」
「ごめん、ちょっと体調悪い!」
大体これでなんとかなる。学生でまだ良かった。
社会人の場合、会社から電話がきたりする。
うっかり出てしまった時は、受け答えがうまくできなくて頭が真っ白になった。会話の途中で電話を切ってしまった。彼には悪いことをしたと思っている。
母親は思うところがあるのか一瞬立ち止まったが、扉から離れた様子。
去りゆく足音から察するに、階段を下りていくようだ。
とすると、ここは二階か。
思い切ってカーテンを開ける。
曇天模様の下に団地がある。どこか見慣れたような街並みだった。
あれ、もしかしてこの子、近所に住んでるのか。
私が入れ替わり立ち替わり、私でない誰かとして目覚めるようになってもう半年以上経った。どうやらカレンダーだけは正常に動いているらしい。
毎朝、目覚めると知らない他人になっている。
正直、頭がおかしくなりそうだ。発狂していてもおかしくない。
自殺を考えようにも、その時入り込んでいるのは他人の身体だ。
もしも私の意識だけ継続されて、乗り移られた誰かが死んでしまったらと思うとそれは出来ない。
人間は不思議なもので、こんな奇特な状況にも慣れがくるらしい。
私は病人を演じることで、知らない誰かの一日をなんとかこなせるようになっていった。
中年のサラリーマン、幼い少女、主婦、入院患者etc
非日常が日常になってゆく。
いつ終わるともしれぬ断続的な日々に、私は目を閉じ耳を塞いできた。
これはチャンスかもしれない。
ここから、私の家まで多分徒歩で20分くらい。
何かが変わるかもしれない。
私は私に会いに行く。当たり前になった非日常を抜け出す為に。当たり前の日常を取り戻す為に。
染まりゆく部屋
ホームセンターでカーテンを選ぶ。
彼女との同棲が決まった。アパートの契約も済ませた。
新居の為の、初めての買い物だった。
「どれが良いと思う?」
彼女が聞いてくる。
ざっと売場を見渡す。
なんだか、どれも悪くないような気がしてくる。
そもそも、良くないものなんて売場に出さないだろうし。
「これが良いと思うよ」
シンプルな薄緑色の布端を僕は指さす。
彼女はホッとした表情をする。
「良かった。私もそれが良いと思ってたのよ」
その反応に、僕もまたホッとする。
本当は濃紺に魚の柄が入ったカーテンが気になっていたのだ。
でも、それはほんの些細なこと。
いちいち口に出したりしない。
「早めに決められて良かったね」
「私も、新しい生活が始まるなって、やっと実感してきたかも」
彼女が寄り添い、指を絡めてくる。僕も握りかえす。
好きな服とか、カーテンとか、本音を言えばどうでも良いのだ。
本当に大切なものを見据えなければいけない。
君の色に染まっていく。そうゆうこと。