お題:溢れる気持ち
「遅刻したクマ」
クマ君が木のウロに現れたのは、約束の時間よりずっと遅く、太陽が一番杉の影に隠れてしまった夕暮れ時でした。
「ひどい目にあったんだ」
「どうしたんだい?」
フクロウ君が尋ねます。
「君の家に来る途中、蜂蜜を採ってから行こうとしたのだけれど、それでミツバチに追いかけられたんだよ」
「それは可哀想に」
クマ君の背中には落ち葉がこびりついており、何箇所かミツバチに刺されていました。
「僕はもう疲れてしまった。少し寝かせてもらうよ」
そう言うとクマ君は、よたよたと奥の寝室にもぐり込み、ふーっと息をついて目を閉じました。
昼前に用意した紅茶はすっかり冷めきっていました。フクロウ君が紅茶を流しに棄ててしまおうとした時、クマ君がパチリと目を開けて起き上がりました。
「そうだ、君に贈り物があったんだ」
クマ君は、背負ってきたリュックサックからツボを取り出しフクロウ君に差し出しました。
「フクロウ君に蜂蜜を持ってきたんだよ」
実はね、遅刻してしまうだろうなと思ったんだけどね。
君の家に来る途中、やっぱり蜂蜜を採ってから行こうとしたのだけれど、それでミツバチに追いかけられてしまってね。
クマ君がいつまでも眠そうな目で話し続けるので、フクロウ君は急いでクマ君の背中に毛布をかけました。
クマ君は、再びまぶたをとろんとさせて眠りにつきました。
目を閉じたクマ君が、寝言のように呟きました。
「僕が起きたら、紅茶を温め直しておいて欲しい。蜂蜜をたっぷり入れるんだよ」
フクロウ君は紅茶をポットに戻し、ホウっと息をつきました。
クマ君がやってきてから、ウロの中がほのかに暖かくフクロウ君までうつらうつらしてきました。
クマ君はいつ起きるのだろう。
夜になったらフクロウ君は散歩に行こうと思っていたのだけれど、こんな日は寝てしまっても良いのかもしれない。
紅茶には、クマ君がびっくりするくらい蜂蜜をたっぷり入れてあげよう。そうしたら目がパッチリと覚めて、一晩中お話が出来るでしょう。
フクロウ君は、屋根裏のランタンを灯してツボの中を照らしました。
テラテラと琥珀色の蜂蜜が揺れています。
フクロウ君はソファに腰を下ろし、まぶたを閉じました。
夢の中でフクロウ君は、クマ君とテーブルを囲み、紅茶を飲んでいました。
「蜂蜜をたっぷり入れるんだ」
クマ君が自慢げに言いました。
スプーンに4杯、5杯、6杯。
気付けばツボの奥から、コンコンと蜂蜜が湧き続けていました。
「蜂蜜がたっぷりだ」
クマ君が笑って言いました。そうして2人はいつしか蜂蜜の海を漂い、星の川を泳いでいました。
お題:kiss「First kiss」
意味の無いところにキスは存在しない。
彼は賢しらにそう言った。
意味深な発言に私は詰める。
「で、どうなの?」
「なにが?」
いやつまり、誰かとキスしたのか、違うのか。
なんて、野暮なこと勿論聞かないのだけれど。
「もういい」
と、一旦会話を打ち切る。
私たちは時々、こうしてズル休みをし保健室で落ち合う。
意味の無い不毛な会話を繰り広げる。
他者の入る余地がないこの時間に、私は心地よさを感じる。
憂鬱な受験勉強も、束の間忘れられる私たちの箱庭だ。
彼は冒頭の議論について話し足りないらしく、話を戻した。
「たとえば、出会い頭に男女がぶつかって唇が重なってしまったとして。それがキスだって言える?」
答えはノー。と言いかけて、ちょっと思いとどまる。
分かって言ってるのかこいつ、と舌打ち。
漫画みたいだけれど、私は彼と同じシチュエーションになったことがあるのだ。
もう3年も前の話。私たちはまだ中学生だった。
私たちは偶然にも同じ高校に進学した。
正直、彼との衝突について、ついこの間まで忘れていたくらい。
「キスとは言えないかもしれない。けれど、その行為が後付けでキスだったと言えることもあるんじゃないかな、なんて」
私は、自分でもよく分からない感情のままそう答える。
「つまり?」
「後々彼らが恋人になったとして、お互いにその事実を覚えていたらキスだったと言えるかもしれない」
言い過ぎたか。あざとかったか。何を言っているんだ私は。
顔が熱くなる私をよそに、彼は研究者のように手を口元にあて何か思案している。
なるほど、いやしかし、その可能性には思い当たらなかった、とかなんとか。
彼は唐突に、ポンと手を打ち立ち上がった。
「桜を見に行こう」
「いや、まだ咲いてないけど」
「知ってる。咲いた時にってこと」
窓を開けると、肌寒い風が保健室を舞った。
春はまだ、少しだけ遠い。
お題:1000年先も「太陽」
子供の頃、宇宙図鑑が怖かった。
ブラックホールのページは、うっかり開いてしまわないよう気を付ける位に恐れていた。
けれども、ブラックホールより僕を絶望させたのは太陽だ。
太陽はいつの日か膨張を始め、太陽系の星々を飲み込んでしまうのだという。
僕は消し炭の様に燃え尽きる地球を想像し、その日1日中布団の中で震えていた。
母は大丈夫、大丈夫と僕を慰めた。
「100年先も大丈夫?」
「大丈夫よ」
「1000年先も?」
「大丈夫」
そうか、1000年先も大丈夫なら、きっと大丈夫なのだろう。
母はもしかしたら嘘をついたのかもしれないと思ったりもしたが、それ以降太陽が地球を飲み込むことについて考えないようになった。
大人になった僕は、幼き日々と真逆なことを考えている。
50億年後か60億年後、太陽は超新星となり地球を飲み込むだろう。
僕は、ガラス細工の様に熱せられ、光を放ちながら消滅する地球を想像する。
個人の幸福も不幸も生も死も、世界歴史と同次元に核と融合し、構成元素をより重い貴金属へと昇華させる。
そんな身の丈遥か上の事象に想いを馳せると、僕の心は水の様に冷たく穏やかになるのだ。
勿忘草
「嫌い」
いつしかそれが彼女の口癖になった。
頼まれていたCDの新譜を聴いて、不意に顔をしかめる。
「このフレーズ嫌い」
イヤホンを外し、口を真一文字にしている。
なんだったのか気になって、歌詞カードを3度読み返す。
僕には何がなんやら分からない。
ただ曖昧に頷き、黙って林檎を剥く。
病室に夕陽が差し込む。
窓から影が伸び、僕の足元へと忍び寄る。
消毒液の匂いは、記憶が引きずり出される様で胸が苦しくなる。
この匂い、私嫌いだわ。
彼女が言ったのはもう半年前。
1つずつ1つずつ、彼女はこの世界に別れを告げるかの様に嫌いなものを増やしていく。
病室に寄る前、医師に言われた言葉を思い出す。
ナイフを持った手元が震える。心臓が激しく脈打つ。
僕の手の甲に、彼女は自分の掌を重ねてきた。
「私、泣いてるあなたを見るの嫌いよ」
分かってる、忘れないからさ。
声に出さず、心の中で呟く。
君のこと、君の中の君が嫌うあらゆることを。
君がいずれ別れを告げる、この愛おしき日々を。
【ブランコ】
日暮れ時、公園で遊んでいるといつも胸が苦しくなった。
もう帰ろうね、と母が言う。
幼稚園児の僕はそっぽを向いてブランコを漕ぐ。
あと15回漕いだら帰ろうと思っている。
口には出さない。
あと15回、あと10回。
まだ帰らない。あと5回。
何も言わないで見ていて、あと少しだけ。
伸びる影に視線を落とし、僕は祈った。