ティーカップから湯気がもくもく。鼻を近づけて息を大きく吸い込んだ。鼻を通っていく甘い香り。思い出のリンゴの香り。
「いただきます。」
口をつける。熱すぎて飲めない。
氷を一粒入れた。口をつける。苦くて飲めない。
砂糖をたくさん入れた。口をつける。わあ、美味しい。
「いつもこの状態で出してくれてたのか……。」
広くなった部屋の中、独り言ちる。
天井に登っていく薄らとした白さ。ぼーっと見つめる。
だんだん、心も体もぽかぽかしてきた。そしたら、なんだか泣けてきた。
おばあちゃんは、森の奥には魔女が住んでるって言ってた。だから、近寄っちゃいけないって。でも、わたし思うの。魔女さんって、悪い人じゃないんじゃないかって。
「〜〜♪」
今日も、異国の言葉で歌ってる。この歌声はきっと、魔女さんのものだ。こんな綺麗な声を紡げる人が、悪い人なわけがない。
勇気を出して、一歩踏み出した。声の方へ、一歩一歩。進んだら、誘われるように、勝手に足が動く。踊るように、1、2、3、1、2、3、って。
もう、耳元で聴こえるように近い。ガサガサっと、茂みをかき分けた。
そこには、わたしと同じくらいの歳の女の子がいた。空に向かって、歌っていた。歌を聴いているとドキドキする。まるで遥か昔から、この歌を知っているかのような。
「だれ?」
「!」
女の子が急にこちらを向いた。わたしは肩をびくつかせるだけで、身を隠すことはできなかった。
そして、彼女は、ある名前を呼んだ。
「×××?」
その名前には聞き覚えがあった。そしてすぐ、わたしと魔女さんは仲良くなった。
今度、おばあちゃんも連れてこよう。魔女さんは、おばあちゃんが生きていることを知ったら、どんなに喜ぶだろう。おばあちゃんも、魔女さんが自分への愛を歌い続けていると知ったら、きっと仲直りのハグをすることでしょう。
「由美ちゃんは他の子と仲良くなってね、でも私のことも誘ってくれるの。そんで、三、四人で遊びに行くと、いつも、私話に入っていけなくて。あの子たちがお話ししているのを、なんとなくで聞いて、乾いた笑いを出して頷いて、頭の中で処理しているうちに、次の話題に行ってるの。ショッピングモールを歩いている時も、私だけ一歩後ろを歩いてる。服屋さんでも、はしゃいでるあの子たちを、笑顔を貼り付けて見ているだけ。
頭がジリジリするの。友達と遊ぶのって、こんなに苦しかったっけ。早く帰りたい、早く帰りたいって常に思ってる。帰りの電車で、ようやく解放されたーって、一日で初めて、嬉しいって思う。
そんな、誘ってほしくないなんて思ってないよ。ただ、違うの、ママ。わかるでしょ?こんな話をした理由。
あの人はね。私の話を聞いてくれる。楽しい話をしてくれるし、私にだけ笑ってくれる。それに、美味しいご飯も食べさせてくれる。私はまったくお金出さなくていいんだよ?すごく楽しいの。
今度ね、もっとお金くれるんだって。その代わり、手を握らせてほしいらしいけど。なんじゃそりゃって感じだよね。ママにもお金あげるね。あの人も楽しそうだし、私も嬉しい。これが、友達ってことなんだと思う!
ねえ、ママ。どうして泣いてるの?どうしたの、ママ…………、」
ドアノブを捻る手、振り向いた時に滑らかに広がる髪の毛、私を見つめる笑顔、「いってきます」と動く唇。
背中がぐんぐん遠くなる。ドアの外、光の中へ吸い込まれて、小さくなって消えていく。
「いかないでっ……。」
か細い自分の声に、目が覚めた。はぁ、はぁ、と息遣いが聞こえる。苦しい。涙がこぼれ落ちて、耳の中へ入る。
鼻を噛みたくて、耳の中を拭きたくて、身体中を拭いたくて、起き上がった。
こんな欲求、なんて贅沢なんだろう。自分の苦痛を取り除く為に、起き上がれるなんて!
ティッシュに手を伸ばしながら、斜め左を見た。あの子と目が合った。振り向いて私を見た時の笑顔のまま。
元気な姿を見せたいのに、あの子が重い鉄の扉に吸い込まれる時も、小さくなって帰ってきた時も、そして今も、私は「行かないで」と縋るだけ。
いつしか、前を向いて歩いて行ける日が来るのでしょうか。あの子は、その先にいますか。
こんなに空が青いと、勘違いしてしまう。
ずっとこれと同じ空が続いていて、その下にはこの街と同じ、暴力のない世界がある、と。
危険だ。この空の千里先では、鼻を摘みたくなるドス黒さで、雲がたちこめているというのに。
空の青さはわたしたちを騙くらかして、口にさせる。
「今日も平和だ。」