星明かりを見ながらたまに思うこと
少し高い所に登ると、星がとても綺麗に輝いて見える。でもどんなに綺麗でも、私には、星々を見ながら星座の絵が見えてこない。なぜ、星々の中から神話の中の絵を想像し得たのだろう。自分の頭の中では、あの点と絵が結びつかない。
よく、プラネタリウムのストーリーとかでは、古代人は星を見ながら神話の世界を〜というのがある。でも小さい頃から私は、全く想像がつかないし納得がいかなかった。
だからもしも、タイムスリップとかして、古代に行ったとしたら、今よりももっと星は綺麗だろうが、星を見ながら星座の話などができないだろう。だから、タイプスリップはできればしたくない。
でも実際にしてしまったら、星座の話どころではないだろうというのはわかる。エアコンないし車もないしWi-Fiないしアイスないし・・・
そんな事はわかっているけど、空の星々を見るたびに、自分の想像力のなさを突きつけられる時がたまにあった。
でも最近は、少し考え方を変えた。「タイムスリップしなくて良かったと」思うようにした。想像力のなさは変えられないが、自分に言い聞かせる言葉くらいは自分で選びたいから。まあ、自分にできるのはこれくらい。
情熱はめんどくさいものだと思っていたが
静かな情熱という言葉があるが、やかましい情熱とか、静かでない情熱っていうのはあまりない。情熱というのは、基本は静かではないなものなのだろうか。やかましいものと情熱は似たところがあるのだろうか。
どちらにしても、情熱という言葉は、イメージだけだと、努力や根性やそんなものと近い。体育会系の人はいいかもしれないが、そうでない人には、ちょっと苦手な分野のように思われる。
しかし、「静かな」という言葉がつくと、印象が変わってくる。なぜそんなに違うんだろう。情熱も、静かであれば、他者に迷惑がかからないからいいのかな。
そういえば情熱家というのは、周りを巻き込んで物事を成すようなイメージがある。静かな、という言葉がつくと、それが途端に変わる。
個人的には、ただ単に好きなこと、夢中になれる事をしていて、そのあり方が静かだったりやかましかったりするだけかもしれない。
そう思うと、そんなに違いはないか。まわりがとやかくいうことではない。なんか情熱ってめんどくさいよねって思ってたけど、本人からしたら、大きなお世話だな。
まわりの人が元気ないのかなと思う時は
おそらく自分が元気ない時。まわりの人を見て、みんな元気だなと思い、たまにそうでない人を見つけると、少し自分と似てると勝手に思い、聞いてみたりする。
さらに、自分の調子が悪いほど、他人を気づかったりする人がいる。他人を元気にする事で、自分も元気になったと勘違いするためにしてたりする。
昔は、こういうのがあるから、人に構うのは遠回りに感じていた。他の人に気を使うくらいなら、自身に気をつかうべきだと。
でも最近は、考え方が変わった→どっちでもいいじゃない という考え方に。
他人が元気になったのをみて、自分が元気になったと勘違いしてもいいじゃない。自分の元気のなさに気づかず、他の人の心配をしてもいいじゃない。
そういう誤解の連続で、コミュニケーションというのは成り立っているし、コミュニケーションを続けていくうちに、元気になっていくという方向もあるかもしれない。
まあ、どれでもいいんじゃないかと、私見ですけど。
遠い約束は破られるけど、役割がある
だいたい、遠い約束は破られるためにある。だからこそ、本当に守られた時は尊い。それでも、遠い約束には役割がある。
一つ、動けないと思っている今から、少し動き出すため。
一つ、ネガティヴに浸りきっている時こそ、そうではないものが必要だから。
そして、最も大事なのは、少し時間が経つと、その約束が守られようが守られまいが、そういったことに関係なく未来がある事に気づかされること。まあ、やっかいなものではある。
新しい地図よりも
新しい地図は、作らなければいけない時はきついが、作りたい時は楽しくて作るもの。でも実際は、地図通りに物事が進むことの方が少ない。出来上がった瞬間が最も楽しく、運用する段階になると、だんだん精彩を欠いていくのが新しい地図、少し悲しいもの。
でも、新しい地図とはそういうもの。そういう宿命。だから個人的には、新しい地図の可能性を夢想するよりも、古い地図を見て、なくなってしまったものに想いを馳せる方が性に合っている。
なんなら、最新のGoogleマップに出ないような地図をみたい。新しい建物が建っていない、新しい道路ができていない、今は閉店した店が載っているような。
そんな、極力未来を見ないような、前向きに進まないような、今に適応しようとしないような、そんな時間を楽しみたい。