『狭い部屋』
カチャリと音がして、扉が開く。
ゆっくりと開いた扉から、待ち焦がれた人物が顔を覗かせる。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「ごめんね。おばさんに捕まっちゃって……」
「そうだったんだ。お疲れ様」
いつもより、十五分も遅く来た彼は、疲れているようだった。
頭を撫でてあげれば、にっこりと暖かな笑みを浮かべた。
「もう少しだから。あと少しで、ここから出られる」
「うん」
「それまで、耐えてくれる?」
「もちろん。約束したでしょ?」
「ありがとう」
私を優しく抱きしめた彼は、泣きそうな顔をしながら、部屋から出て行った。
私はまた、狭くて薄暗い部屋に独りになった。
でも、これもあと少しの辛抱。
彼が、この物置部屋から、私を連れ出してくれる。
きっと、すぐそこまで来ている幸せな未来を思い描きながら、ゆっくりと目を閉じた。
部屋に、煙が充満していることにも気づかずに――。
『失恋』
「ごめん……」
あなたの小さな声で、たった一言で、この恋が終わった。
『正直』
「怒らないから、正直に言って」
これを言われるのは、もう何回目だろうなあ。
このセリフは、聞き飽きちゃった。
お母さんこそ、「何を言ったって、怒るからね」って、正直に言ってくれたらいいのに。
『梅雨』
「雨音が、響いていますね」
「え……」
彼女から発せられた言葉の意味が分からないから、僕は驚いたのではない。
今は梅雨時期で、いつもなら雨が降っている。
けれど、今日の空は、束の間の晴れ間を見せている。
雨音が響くわけがない。
つまり、彼女は、別の意味を含めて言っているのだ。
――あなたを愛していました。
あの言葉には、この意味があるに違いない。
彼女は、僕の行きつけのカフェの店員だ。
そこまで多くの交流は無いが、全く知らないというわけでも無い。
ただのカフェの店員と客の関係だ。
そのはずだった。
けれど、彼女は、ああ言ったのだ。
いつから、僕に好意を寄せていたのか。
全くそんな素振りも見せなかった。いや、僕が気が付かなかっただけかもしれない。
頭の中で様々な考えが渦巻く。
ちらりと彼女の顔を見ると、困ったように眉尻を下げて、緩やかな笑みを浮かべていた。
「早く、やむと良いですね」
「……っ」
彼女のぎゅっと力の入った唇を見て、申し訳ない気持ちになる。
ごゆっくりどうぞ、と言って去る彼女を見ることもせず、運ばれてきたコーヒーに口をつける。
苦味を無理やり胃に流し込んで、左手の薬指にそっと触れた。
『無垢』
あなたのその無垢な心を、穢してしまいたい。