真っ暗な海には化け物が潜む。
寒い。悲しい。痛い。苦しい。辛い。寂しい。淋しい。さみしい。さみしい。
そんな思いで今日も手を伸ばす。
お願い。こっちにきて。苦しいよ。さみしいよ。助けて。
ワタシの手を掴んだ誰かがコッチに来てくれる。逸る気持ちに鼓動を揺らせながら急いで其の人の元へ向かう。
来てくれた!やっと来てくれたんだ!!
顔を覗いたその時、瞳からスゥーっと光りが抜けていくのがわかった。
……チガウ。アナタじゃない。
寂しい。淋しい。さみしい。さみしい。ゴメンネ。
何で来てくれないの?早く来てよ…アナタが来てくれないからこんなにも苦しくて痛い。早く。早く。
来なくてよかった。寂しいよ。なんで。貴方が無事なら。苦しい。痛い。あいたいよ。会いたいよ。
化け物は今日も夜の海で人を攫う。
部活からのいつもの帰り道。それは、今日は風が強くてペダルも何処となく重たいなぁ、早くソファで寝転がりたいなぁと、ふと目線を下げた時だった。茶色の中々の質量がある、単一電池をほんの少し伸ばしたぐらいの大きさの触覚を生やしたヤツと目と目が合った。
私の胸元寄りの腹あたりにバッタなのかイナゴなのかは分からないがそれ系統の虫がいたのだ。
咄嗟に私の脳内に"何か少しでも衝撃を加えたら私の顔面目がけて飛んでくるかもしれない"という危険予測が駆け巡る。
あっ、あっ、あーーーーー!!!
声には出さなかったが心の中の叫び声でさえも人間の言葉を喋れなくなってるくらいのパニックofパニック。
足は止めない。少しでもさっきまでとは違う行動をとればヤツは何かを察して顔面に飛びつくかもしれないからだ。
服をパタパタさせてるのも論外だ。絶対顔面に向かってジャンプをしてくる。そうに違いない。こういうときの悪い予感はいつも当たるんだ。紛れもなくコイツは私の顔面を狙っている。今は悠長に服に張り付いているだけだが、恐らくヤツの最終目標は私の顔面めがけて飛ぶことだ。
ヤダ…もう泣きそう。
家までの距離は後もう少し。近いようで遠いこの距離が憎い!!
今にも立ち漕ぎをして速攻で家に着きたいと思うが、立ち漕ぎに変えた途端絶対襲いかかってくるはずだ。あまりにも危険がすぎる。正直、帰路の途中に何度か立ち漕ぎをしていた記憶があるが、ヤツがいつからそこにいたのかを把握していない私ではその危険度が高い選択肢は選べない。大人しく今の体制をキープしながら家を目指すしかないのである。
だがしかし!!
貴様は今は私の優位に立っているつもりかもしれないが、家に着いたのなら時期にそれもひっくり返る。
家に着いたら私には虫など屁の河童なお爺がバックについているのだよ。お前の野望は形をなさないまま終焉を迎えるのだ!ざまぁないぜ!!今のうちに恐れ慄く私の姿を見て愉悦に浸っているが良いさ!ふはははははははは!!!
虎の威を借る狐とはまさにこのこと。
その後ヤツは一度も動くことなく無事に一緒に帰宅を果たし、優しいお爺のゴッドハンドによって野に放たれた。
こんな心臓に悪い相乗りはもう懲り懲りだ。
毎日のようにあった彼のツイートがある日を境にパタリと途絶えた。
たまにはそういう日もあるだろう。きっと疲れてたんだ。そう自分に言い聞かせて今日で二週間目。
そのとき初めて彼の存在が私の心の糧となってることに気付いた。不安な日々が続く。
心にぽかりと空いた穴はなかなか埋まってはくれない。
自分の心なのにままならないものだ。それほど彼の存在に恋焦がれてしまっていたようだ。
夕方でも夜でも関係なしな彼の「おは」だけのツイート。
それだけで私の心は息を吹き返すだろう。
君の心が健康を取り戻したらまた愉快な話を聞かせておくれ。
彼の歌声を初めて聴いたのは丁度去年の暑い暑い夏の日だった。
彼は人前で歌うことにトラウマを抱えていた。いつもワンフレーズしか口ずさまないのはきっと彼に自信がなかったから。
でも私は彼の歌声が大好きだった。
歌になるといつもより低くなる声もしゃくりを入れる歌い方も力強いのにどこか優しさが残るところも。
荒削りだけど癖がなく真っ直ぐに届く音楽だった。
上手いと思いはしても下手だと感じたことは一度もなかった。
そんな彼が7人で歌を出した。
すごく嬉しかった。
彼の歌声がどこにあるのかは探さなくてもすぐに分かった。
やっぱり君は上手いよ。
トラウマを克服しようと歌を諦めないでいてくれてありがとう。みんなから歌上手いね!って褒められてるのが自分のことのように嬉しかった。
今年の秋中にソロでシングル曲を出すらしい。
君が奏でる音楽は何色なのだろうか。
今は時の流れる早さすら愛おしい。
プールからの帰り道、あまりの暑さにいつもの最短ルートではなく、やや遠回りになるがお店がある方角へと足を進ませた。
アイス片手にせっせと足を動かす中、一体のお地蔵さんを見つけ、ふと足を止める。こんなに暑い中彼も直射日光に晒されて大変であると、いつもは気にもしたことがなかったのにその時だけは彼が戦友のように思えて仕方がなかった。なんの気もなしに頭に被っていた麦わら帽子をお地蔵さんに被せる。元々好きで被ってたわけじゃなかったからコイツが役に立つのなら本望だろう。
「こいつをお前に預ける」と、赤髪の海賊になりきる。
お地蔵さんは微笑みを浮かべている。
「おれにはこれがあるからさ!別にいいよ。あちーけど頑張ろうな!!」とアイスを揺らしながら意気揚々と返す。
お地蔵さんは微笑みを浮かべている。
母さんに怒られそうだ…と思いながら今度はもっとカッコイイ帽子を買ってもらおうとちゃっかり算段をつける少年は逞しかった。
少年の後ろ姿を見送る。
麦わら帽子がかすかに揺れた音がした。