市の図書館の自習室。
先に来ている同級生を探し当てると、彼女は机の上に置いた自分の腕を枕に眠っていた。
【誰も知らない秘密】
赤点の追試対策に勉強を教えろって言ったのはこいつなのになー…
先日の定期テストの個票が、隣の席からひらひらと舞ってきた。
見せてくれたわけじゃないけど、偶然見ちゃったんだよな。
で、あまりの点数の悪さに愕然とした。
赤点スレスレ、数学と英語は赤点で追試。
俺だって、10位以内に入っているような優秀な人間じゃないけど、それにしたって。
目を見開く俺に、
「勉強教えて。数学と英語だけで良いから」
でっかい瞳をうるうるさせながら懇願されて、拒否できなかった。
だって俺はさ、こいつのことを同級生以上に想っているわけだし。ぶっちゃけ、好き、だし。
俺の部活が終わってからと約束して、帰宅部のこいつはじゃあ先に勉強してます!って張り切ってたんだよ。
それなのに。
教科書とドリルとノートを広げたまま、穏やかな寝息で眠ってるってどういうことだよ。
自分の荷物を隣の席の床に置く。
俺の席の確保のため、部屋の片隅の席のひとつ隣に座ったこいつ。
勉強する気はあったんだろうけど、睡魔に勝てないようじゃダメだろ。
ため息を吐きながらも、彼女の寝顔を眺める。
睫毛長いなあ、肌が白いなあ、髪の毛がつやつやして綺麗で柔らかそうだなあ、頭小さいんだなあ、華奢な肩だなぁ…
マジマジと見ることで今まで知らなかったことをたくさん発見して、胸が熱くなる。
机に溢れた髪を一房、指で摘んでくるくると巻きつけてみる。冷たくひんやりとして、そして指からさらさらと溢れていく。
もっと触れたい。
唇に目がいったらもうダメだった。
唇が荒れるのが嫌だと、授業の間の休憩時間にはいつも薬用リップを塗っていた。
ドラッグストアで同じリップを眼にするだけで、俺はいつも胸が騒がしくこいつを思い出してるくらい、こいつの唇は特別で。
ダメだってわかってるけど、でも。
テーブルに手をついて、まだ眠っていることを確認する。
そおっと唇に近づき、瞳を閉じて唇にそおっと触れた。
柔らかい、暖かい。
愛おしさが膨れ上がる。
そおっと唇を離し、こいつが目醒めていないことを確認して安堵の息を吐く。
まだ、知られたくない。
俺がこいつを好きなことを。
俺はこいつにとって、ただの同級生で、平均よりも少しだけ勉強ができるヤツに過ぎないのだから。
もう少し、距離感を縮められたら。
図書館で学習中の受験生の邪魔にならないように、声を顰めてこいつを起こす。
「おい、起きろ」
肩を強めに叩く。本当はもっと優しく触れたい華奢な肩を、少しだけ乱暴に。
「…んぁ、寝ちゃった、」
口許を拭う。大丈夫、よだれなんて垂れてなかったし、とても可愛い唇だったよ。
「なぁにが、先に勉強してます!だ」
「勉強はしてたんだよ、いつの間にか寝ちゃってただけで」
「今度寝てたらもう教えてやらないからな」
「そんなぁ」
へにゃりと情けない顔をする。
なんだろ、いつもよりもこいつは俺に素を見せてる気がする。
寝起きの油断?
俺しか知り合いが不在で周囲の目がないせい?
…楽しい。声を顰めた密やかなやりとりが、とても楽しい。
数学の問題を解かせてみると、使う公式すらわかっていないことに気がついた。
一から説明か。
酷い点数を見てなんとなく予想はついていたから、順を追って説明して理解させていく。
「わかったかも」
じゃあ、とさっきと似通った問題を出してみると、困った顔で見上げる。
「数字が変わっただけで、解き方は一緒だって」
もう一度説明する。
今度はすんなりと解いていく。
簡単な計算ミスで誤答だったけど。
落ち込んで頭垂れたから、「計算ミスだけ。進歩してるよ」と頭をポンポンとして慰める。
…なんか優しい、と呟いた声が聞こえた。
少し下唇を噛んで照れを隠すように横を向くこいつが愛しくなる。
少しずつ、距離感を縮められたら良いな…。
…キスで目醒めなくて良かった。
キスで目醒める物語は、両想いでこそ成り立つ。
だから、両想いになるまで。
ファーストキスは、誰も知らない秘密。
誰も知らない秘密
目覚ましの設定時刻より随分早く目が覚めた。
ベッドから手を伸ばしてカーテンを少し開けると、空が白んでいる。
昨日引っ越してきて、今日が初めての朝だった。
一人暮らしの朝は、静寂に包まれている。
洗濯機を回している音もなく、キッチンから食欲をそそるお味噌汁の匂いが漂うわけでもなく。
静かな夜明け。
憧れていた一人暮らしのワンルームをしばしぼんやりと眺める。
何を、しようか。
やらなければならないことはたくさんあるけれど、
この静かな夜明けは、高校を卒業した私が手に入れたもの。
珈琲を味わいながら、静かな夜明けの色彩を眺めて一日をスタートしてみよう。
ベッドから降りて、電気ケトルに水を入れる。
吐く息は白く部屋に溶けていった。
静かな夜明け
「ん、コレ」
幼馴染が私にミニブーケをくれた。
私もよく行くスーパーに併設されたフラワーショップで売っているのを見かけたことがある。店頭でブリキ缶に入っている幾つかのブーケの一つ。
「珍しいね。って言うか、初めて」
幼馴染との付き合いは長い。
幼少期から自宅が近所で、親同士の仲が良くて、家族ぐるみのお付き合い。
男とか女とか性別関係なく追いかけっこもしたし、ゲームもした。バーベキューも花火も、海も、スノボも。
宿題を写させてあげたり、サッカー部のマネージャーになって合宿も。
幼馴染、親友---一時はそんな枠を超えて恋人関係になったこともあったけれど、もう、過去のこと。
私は来月、結婚をする。
住み慣れたこの街を離れ、彼の故郷に住居を構える。
「まだ好きなんだって。ちゃんとお別れさせてあげたら?」
なんとなく避けてきた幼馴染に会うように親友にセッティングされて、今、海沿いの丘にある展望台に幼馴染と二人でいる。
展望台と言いつつ、寂れて草木が生い茂って、眺望は此処へ来る前の開けた場所の方がマシだったほどの。
「コレ、ヤマトストアーの花花のブーケでしょ」
「…花屋で花買うとか照れ臭いんだよ」
頬が赤く染まる。
懐かしいな。昔はこの照れ顔が好きだった。
「花花が精一杯?」
揶揄うように覗き込むと、視線を逸らせて「そーだよ」とぶっきらぼうに伝えられる。
「うん、嬉しいよ。ありがとうね」
薄紫の小花が揺れている。
タンポポの色違いで茎が長い、そんな花。
名前は知らない。きっと幼馴染も知らない。
花花のミニブーケは値段だけの掲示だし。
「なあ」
「ん?」
「俺のダメだったところってどこ?」
ブーケから顔を上げる。
真剣な瞳とぶつかった。
「ダメなところなんてなかった…と思うよ」
「そんなわけねーだろ。別れ話を切り出したのはおまえからだった」
「うん、そうなんだけどね…」
「他に好きなやつがいるか聞いてもいないって言うし。アレは嘘だった?」
「嘘じゃないよ」
ブーケに視線を落とす。
幼馴染の精一杯の祝福のプレゼント。
いつも優しくて、こんなときにも優しい幼馴染が選んだブーケ。
こんなに優しい人を傷つけて、私は別の幸せを掴む。
「あの頃、あなたは何も告げなかったけれど、結婚を考えてくれてたでしょう?でも私はそこまで気持ちが追いついてなくて、それで別れを決めた」
「そんなの、俺はおまえの気持ちが追いついてくれるのを待ってた。別にすぐにって考えてたわけじゃなくて」
「うん。わかってたんだけどね。でも、同じだけ好きじゃないことに苦しくなって」
「そっか…うん、わかった」
幼馴染は展望台の海側に歩み寄って柵に手をかけた。
「展望台とか言って、見晴らし悪いよなぁ」
海を見て独り言ちる。
私が、ちょっとだけ泣きそうになっているのを気づかないフリをしてくれている。
だから私も気づかないフリをする。
少し涙を含んで湿り気を帯びた声音を。
「でも、海、綺麗だね。キラキラして」
「おぉ、綺麗だな」
自宅へ帰り、ミニブーケを生ける。
花瓶なんてないから、ジャムの空瓶に。
お姉ちゃんが帰宅して、キッチンの花をチラッと見た。
スマホに目を落としたまま、お姉ちゃんが私に尋ねた。
「その可愛い花の名前、知ってる?」
「知らない」
「シオン」
「シオン?」
「花言葉は、【あなたを忘れない】【遠くにいる人を思う】」
「……」
「お休み」
「うん、お休み」
花は散る。
けれど、幼馴染の想いは花が散るほど早くには無くならなくて。
永遠の花束
「さわっても良いですか?」
公園で犬の散歩をしていると、ひとりの女の子が話しかけてきた。
小学3.4年生くらい?礼儀正しい可愛い子だなあ。
うちのチワワはおとなしく、噛みついたりしたことはない。
「うん、良いよ」
女の子はそおっと優しく背中を撫でた。
犬もおとなしく撫でられている。
女の子はワンコをひとしきり撫でた後、
「ありがとうございました」と私にはお礼を言い、
ワンコには「バイバイ」と手を振って、友だちの輪に再び加わっていった。
「さ、いこ?」
ワンコは女の子たちが遊んでいる遊具を眺めるように体を向けておすわりした。
「あれ?行くよ」
おすわり続行。
紐を引っ張っても足を突っ張って動こうとしない。
「ありゃ。嬉しかったんだねぇ」
少しだけ付き合うかと、ワンコの後ろに座り背中を撫でて、遊具で遊ぶ女の子たちを眺める。
5分もしないうちに、さっきの女の子が走ってきた。
「ワンちゃん、疲れちゃったんですか?」
「うーん、皆んなが遊んでるのを見たいんだと思うよ」
「かわいいっ」
女の子は喜び、でも、先ほどと同じく、そおっとワンコを撫でる。
「動かなかったら、どうするんですか?」
「抱っこだねえ。しばらく抱っこしてあげれば気が済んで、また歩き出すから」
「甘えてるってことですか?」
「そういうことだね」
「かわいい」
女の子とのおしゃべりを楽しんでいると、公園内で短く音楽が流れた後、
『5時になりました。早くお家に帰りましょう』
帰宅を促すアナウンスが流れた。
女の子の友だちが全員合流して、ワンコをかわいいと愛でてくれる。
ひとしきり皆んながワンコを撫でた後、
「バイバイ」とワンコに言って、私も子どもたちにバイバイと手を振る。
ワンコは女の子たちの後ろを追いかけて歩く。その足取りは軽い。
ニコニコしてかわいいけど、バイバイできていない。それがいかにも人間大好きな犬っぽくて可愛すぎる。
公園外の横断歩道を渡るとこまで見送って、自分も行きたいと主張するワンコの頭を撫でる。
「キリないよ。楽しかったね」
バイバイが理解できないワンコ。
女の子たちとずっと一緒に遊べると信じて疑わないワンコ。
愛おしくて抱っこをすると、べろべろと顔をしつこく舐められた。
バイバイ
私はよく居眠りをする。
旦那が運転する車内で、
新幹線の車内で、
飛行機内で。
私にとって、移動時間は睡眠時間。
うつらうつらと眠くなり、眠っては起きて、起きては眠ってを繰り返す。
旦那の運転が荒過ぎるが故の移動中の睡眠は、乗り物酔いしやすい私が編み出した対処法。
(いつの間にか、乗り物全般に適応したのは些か困っているけれど)
移動中に目を覚ませば、
そこはもう見知らぬ世界の旅の途中。
長い長いトンネルの中を走っていたり、
海岸沿いのビューポイントだったり。
瞬間移動してる楽しさは、私の居眠りがないと始まらない。
家族で旅行に出かけたその日、目が覚めると車はSAの駐車場に停めようとしているところだった。
車から降りると、聞き馴染みのない方言が私の知らない抑揚で飛び交っている。
幟で推されている名物は、私の知らないB級グルメ。
炭火の美味しそうな匂いに誘われてキッチンカーを覗くと、良い塩梅に焦げ目のついた大ぶりのお肉!
食べたら旅館の夕食が食べられなくなっちゃう?
魚介食べ放題のプランなのに、それは避けたい。
いやいや、こんなに美味しそうなのに食べないなんて勿体ない。
とりあえず一旦冷静になろう。
その場を離れて自販機でお茶を買おうとして、和紅茶のペットボトルを見つける。
へぇ、珍しい。
コレを買って、さっきのお肉は諦めて…
頭の中で折り合いをつけていると、さっきの美味しそうな匂いが濃くなった。
振り返ると、別行動をしていた娘がパッキングされた物を持ち上げた。
「お母さん、お肉食べたかったんでしょ」
「バレてた?」
「バレバレ。味見しよ」
「うん」
口を大きめに開けて、ひとくちづつ皆んなで頬張る。
決して満腹感が出ないように、遠慮がちに名物をシェアして、思い出を貯金する。
旅の途中。
それはスタンプラリーのようなものかもしれない。
立ち寄るけれど、ゴールはまだ先にあって、ゴールから逆算しながら楽しむという過ごし方。
旅の途中