「疲れたー」
「お疲れさま」
クリスマスイブの当直明けで愛しの彼女宅へ上がり込むと、愛しの青木由希奈ちゃんが俺を出迎えてくれた。
ちなみに由希奈は外科病棟の看護師で、俺は同じ病院のレントゲン技師。交際開始後1ヶ月のラブラブなとき。
まだ俺たちの交際を知っている人は職場内にはいない。仕事中の接点はそれほど多くはないけれど、全くないわけではないから、周囲に気を遣わせるのも何だかなあという理由で。
シャワーを浴びてから、俺と自分の軽食を準備してくれている由希奈に声をかける。
「夜の転倒患者さん、歩行状態問題なくてこのまま様子見ます、って浅尾先生わざわざ報告くれたよ」
由希奈は準夜勤務で、転倒患者に関わったうちの1人。俺は当直の浅尾先生からのレントゲンのオーダーを受けて、病室でポータブルのレントゲンを撮影した。レントゲンの時点で骨折はないと判断されたけれど、筋肉やら痛めた可能性もある。それを浅尾先生は問題なかったとレントゲン技師の俺にまで報告をくれたわけだ。
「浅尾先生ってマメだよな」
「ね。あの人は天然の人たらしだと思うよ。老若男女、誰にでも平等で面倒見が良くて、おまけにあのルックスだもん。浅尾先生は人気しかないよ」
フランスパンにサラダ、クラムチャウダーが並ぶ豪華メニュー。
クリスマスだからって、これは。
「由希奈、準夜勤なのに早起きしたの?頑張りすぎ。すっげぇ美味そうだけど」
「自動調理器だよ。材料入れてスイッチひとつで完成ってありがたいよね」
「って言ったって、材料を揃えたり、カットしたり、工程は踏んでるんだから。もっと自慢したって良いのに」
「ん、じゃあそうしよ」
「おう。褒めちゃる」
両手を広げると、胸に擦り寄ってきた。ハグしつつ頭を撫でると、背中に手を回してくれる。
「由希奈」
顔を上げさせて、瞳を見つめる。
由希奈の頬が上気したのがわかった。
「ご馳走食べたら…良い?」
「…うん」
ゆっくりと小さな口づけを繰り返す。
「あー止まんなくなってきた」
「もう」
「よしっ。冷めちゃうから食べよ」
由希奈の身体を引き剥がし、食事を開始する。
彼女と交際1ヶ月目のクリスマス。
彼女手作りのご馳走を食べて、ベッドでいちゃいちゃしながら過ごしてしまいそうなクリスマス。
それも良いような気がするけど、由希奈の身体は辛くなるかもな。由希奈の希望も叶えてやりたいし。
「なんかやらしいこと考えてる?」
「ん、まぁ、否定はしない。けど、辛くなる前に言ってほしいなって思ってた」
「ん。木村大和くんは結局優しいね」
「なんだそれ」
「好きだなぁってこと」
「由希奈さん。食事を食べ終えてから言ってください」
「はあい」
自分に厳しい彼女を、俺なりに甘やかせてあげるクリスマス。
クリスマスの過ごし方 関連作品 イブの夜に 2024/12/25
微熱 2024/11/27
クリスマスイブの今夜、あたしは準夜勤務になった。時間帯は、夕方から日付けが変わる夜中まで。
あたしと同じハズレクジを引き当ててしまった青木先輩と安達先輩との3人夜勤。
当直は外科医の浅尾先生だから、何かあっても相談しやすくてやりやすい夜勤。
それに「クリスマスに仕事だから」と浅尾先生が、準夜勤務と深夜勤務の6人のために買ってきてくれたコンビニのケーキも休憩室の冷蔵庫にある。
21時の巡視や重症者のチェックも滞りなく終えた。
青木先輩と安達先輩が休憩室から顔を覗かせる。
「宮島さん、ちょっと休憩しない?」
「あ、はい!できます!」
滅多に取れない勤務中の食事以外の休憩。
2人は「浅尾先生も呼んじゃった」とコーヒーメーカーをセットしてコーヒーを抽出していた。
ケーキがテーブルの上に並べられている。食べたいケーキを一斉に指差すと、運良く3人バラバラで、おおーっと盛り上がった。
そのタイミングで浅尾先生が「楽しそうだな」と顔を覗かせた。
先生が食べたいケーキは事前に聞いていたから、先生の前に準備して、淹れたてのコーヒーも置く。
浅尾先生のポケットマネーで購入したというコーヒーメーカーはあたしたちの団欒を豊かなものにしてくれる。
命の危機が迫った重症の入院患者はいなくて、ナースコールも鳴らない穏やかな夜。
私はコーヒーカップを両手で包み込みながら、ここに居る先輩看護師と浅尾先生が思っているだろうことを言った。
「今夜、落ち着いてて良かったですね」
「………」
なぜか3人は無言で揃ってあたしの顔を見つめた。
「え?え?あたし、何か不味いことを言っちゃいました?」
「うーん、医療従事者あるあるなんだけどね、落ち着いてるって言うと」
急にモニターのアラーム音が鳴り響く。
ナースステーションに並ぶ心電図モニターのうちの1台に頻脈が見られ、それがアラームの原因だった。
あたしの受け持ち患者さん!21時は異常なかったのに!
「バイタル測ってきます」
急いで血圧計を持ちに行ったあたしに、「待って」とストップをかけたのは浅尾先生。
「宮島さん、12誘導とって」
「え、」
研修で12誘導心電図を習ったけれど、実際の患者に行ったことはない。
まして、今、不整脈が出現している患者さんに、あたしが?
「大丈夫。致死的な不整脈じゃないから。落ち着いてとっていいから」
浅尾先生が安心させるように微笑む。
あたしのプリセプターの青木先輩もその言葉に同意した。
「宮島さん、12誘導やってみて。主治医の浅尾先生が当直で、点滴ルートも入っていて、落ち着いた状態でできる良い機会だから」
「わかりました。やってみます」
おぼつかない手技ながらも、なんとか12誘導をとり終える。患者さんは、頻脈以外には一般状態も安定している。
浅尾先生に12誘導の波形を確認してもらっているとき。
ドスンッ!
大きな物音がした病室へ看護師3人で走っていく。
「大丈夫ですかっ!?」
患者さんがベッドのそばに転倒している。
また私の受け持ち患者さん…
ただ落ち込んでいるわけにもいかず、ボディチェックを行いながらベッドへ誘導する。
浅尾先生が病室に顔を覗かせた。
患者さんは、床の危険察知用のセンサーマットのブザーを鳴らしたくないがために無理に足を伸ばして、足が引っかかって尻餅をつくように転倒してしまったことを報告する。
患者さんの診察をした後、先生はレントゲンをオーダーした。
「レントゲン次第かな。痛みが強くなったりしたら教えてくださいね」
あたしはレントゲン技師さんの介助をした後、ベッドから降りようとした理由を聞き出して対応する。他に考えられる諸々をお手伝いして、用事があるときはナースコールを押してもらうように依頼する。
ナースステーションへ戻ると、浅尾先生の医療用のスマホが鳴った。
え、今のレントゲンで骨折があったとか?レントゲン技師からの報告を疑って、看護師3人で顔を見合わせる。
浅尾先生が通話を切って、あたしたちに告げた。
「急患。急性アルコール中毒」
「あーー」
クリスマスイブだから、羽目を外した人が運ばれてくるのね…。
「入院はうちの病室になるから」
「わかりました。準備します」
「よろしく。若い男性らしいから、皆んな気をつけて。困るようなことがあれば、俺や、他の病棟の男性スタッフの応援を呼んで」
「ありがとうございます」
浅尾先生がテキパキと指示を飛ばしながら、電子カルテをチェックする。
「骨は大丈夫そうだけど、痛がり方や動きによっては、整形外科の紹介をするから注意して」
「はい」
「宮島さん」
浅尾先生があたしを呼んだ。
「転倒は良くないことだけど、宮島さんのせいばかりじゃないよ」
「え?」
「もともとセンサー対応するくらい、危険な行動をするかもしれないと予測できる患者だったんだ。そういう人を1人で防ぐことはまず無理だよ。幸い大きな怪我はないから、今回のことをフィードバックして次に繋げていこう」
「はい。わかりました」
先生は微笑んで、あたしの肩をポンポンと軽く叩いて、夜間外来へ足早に歩いて行った。
初めて経験する急性アルコール中毒の患者の対応はとても厄介だった。
大きな声で叫ぶ、暴れる、点滴を抜こうとする。ベッドに寝てくれない。
外来から男性技師さんが付き添ってくれて、危険のないように押さえつけてくれるけど、酔って力加減が制御できない感じで、あたし達も押さえなければいけなかった。
「治療に協力できないようなら、帰宅してもらうことになりますね」
浅尾先生が付き添いの友人に告げる。
「朝まで様子を見ようと思いましたが、これ以上スタッフに危険を及ぼすようですと、見過ごすことはできません」
毅然とした態度に、あたしが浅尾先生に気を取られた瞬間だった。
!!
お尻を触られた。見えてないけど、絶対に!
あたしは反射的に患者から手を離し、距離を取った。
浅尾先生があたしと患者の間に立ち、あたしを先生の背後に隠した。
「あなたがしたことは立派な犯罪行為です。退院させます」
「でも先生、」
友人が困惑して何かを話そうとしたものの、先生の背中に立つあたしでさえ、先生が怒りのオーラを纏っているのがわかった。
「スタッフに危害を加えた時点であなたを患者として診ることはできません。今夜の病院の責任者は私です。退院してください」
浅尾先生に言い切られて、友人は諦めたようだった。
浅尾先生が点滴の速度を速める。
「終わったらナースコールを押してください」
友人が頷いたのを見届けて、先生はあたしに「行くよ」と小声で言って病室を出た。
廊下に出ると、先生に手を握られた。
「せんせ…」
「着いておいで」
先ほどまでとは異なり優しい声音で、あたしの歩くスピードに合わせて少しゆっくりめに歩いてくれる。
着いていくと、ロビーの自販機前だった。
「ココア飲める?」
「あ、あたし、お金…」
「良いって」
クスッと笑って、先生に椅子へ座るように促される。黙って従って先生を見上げると、先生は小銭を入れてホットココアのボタンを押した。紙コップがコトンと落ちて、ココアが抽出されるのが見える。
はい、と渡されて受け取った。温かい。水面が小刻みに揺れている。
「ごめん。怖かったね」
「……いいえ」
小さな声で否定したけれど、本当は怖かった。先生が怖かったのか、アルコール中毒の患者が怖かったのか。多分、両方とも。
今夜は色々起きすぎて、あたしのキャパオーバーだった上での、セクハラだった。
「ココア、飲んでみて。落ち着くから」
「はい」
先生が少し切ない表情をしているのに気づいた。
「さっきの患者が入院する前に、先生が気をつけてって言ってくださってたのに、あたし、気をつけられなくてごめんなさい」
「…難しいよな。患者の危険を防ぎたいし、夜中だから他の患者を騒音で起こしたくないし。さっき、転倒があったばかりだから余計に」
「はい…」
「常識が通じない患者はいるんだよ。アル中なんて、最たるものだと思うけど。
今夜、病院で起きたことの最終責任は俺だから、ああいう患者は最初から男性スタッフだけの対応すれば良かった。その判断をしなかった俺のせい」
「そんなこと、」
「宮島さんが責任を感じる必要はないよ。やられた方が責任を感じるなんておかしな事だから」
「そしたら先生も、ですね」
「確かに」
不思議。浅尾先生と会話していたら、手や足の震えがおさまってきている。忘れられない出来事にはなったけれど、でも、次は、もう少し上手く対応できる気がする。浅尾先生が、その勇気を与えてくれた。
ナースステーションに戻る途中、先生が軽口を叩いた。
「散々なイブの夜だったな。宮島さんが、今夜は落ち着いてる、なんて言うから」
「あたしのせいですか?」
「病院あるある。落ち着いてるって口に出すと、何かが起こりがちなんだよ。偶然なんだけど、昔からどこの病院でも言われててさ」
「…もう二度と口にしません」
「そうだな。それが良い」
先生がおかしそうに笑ってくれて、あたしも笑顔になる。色々、予想外のことが起きたけれど、今夜のことを教訓に頑張らなくちゃ。
ナースステーションでは、青木先輩が出迎えてくれた。
「宮島さん、大丈夫?さっき震えてたよね。ごめんね」
「いえ、大丈夫です。心配かけてすみません」
「良いよいいよ。落ち着いたなら良かった。浅尾先生もありがとうございます」
「ああ。キミたちは何もされていない?」
「私たちは大丈夫です」
「良かった。あの患者が退院したら、休憩しない?」
「良いですね。とりあえず巡視回ってきます」
「3人とも巡視行って来て。俺はカルテ入力しているから、何かあったら呼ぶよ」
「ありがとうございます」
あたしたち看護師はそれぞれの受け持ちの病室を回って異常がないか確認する。
今度こそ、何も起きないように、しっかり確認することを心がけたら、普段よりも遅くなってしまった。
そんなあたしに「お疲れさま」と声をかけてくれる先輩や浅尾先生。
保温しすぎてやや煮詰まり気味のコーヒーはほろ苦さを通り越している。さっき甘いココアを飲んだから、余計に。
青木先輩や安達先輩には、あたしのケーキの食べが良くないと心配された。あたしは夕食の量が多かったからだと答える。
本当は、持参した夕食なんてペロッと食べちゃったけれど。
浅尾先生をチラッと見る。文句も言わずに煮詰まったコーヒーを素知らぬ顔で飲んでいる。横顔、カッコいいなぁ。
…自分の思考にビックリした。確かにとてつもなくイケメンだけど、仕事中に見惚れたことなんてなかったのに。
それに…食べられない理由を夕食のせいにしてしまった。
浅尾先生がココアを奢ってくれたことを、何故か、自分と浅尾先生の2人の秘密にしたかった。浅尾先生は何とも思っていないだろうけれど、優しかった浅尾先生を、自分だけの思い出にしたい。
「ご馳走様。帰り、皆んな気をつけて帰って」
「はい。ケーキご馳走様でした。ありがとうございました」
立ち上がってペコリとお礼する。
浅尾先生は当直室へ戻って行った。
初めて尽くしだった、看護師1年目のクリスマスイブの夜勤。
学びが多く、先輩たちの温かさや、浅尾先生の人となりを知ることができた。正義感が強く、スタッフを大切にして、毅然として、とても優しい。おまけにカッコいい。
あたしの胸の音は正直に、とくんとくんと大きく速く鳴り響く。
でも、先生は結婚しているから。
あたしは今夜だけ、先生に恋をして、そして忘れることに決めた。
イブの夜は聖なる夜。
朝にはきっと、外科医の1人になっている。
今夜だけは、嘘をつかないで、浅尾先生に恋していたい。
誰にも言わずにそっと、内に秘める恋を。
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「お母さん、これ、ラッピングしてよ」
旦那に渡された物を見て、私は旦那と渡された物を二度見する。
それは、先週、私が購入してラッピングした物と全く同じ物だった。
「コレ買ったよ」
「わかった。じゃあワシは買わなくて良いね」
「うん」
そういうやり取りをしたのに…。
「ねぇ。サンタクロースが2つ同じ物をプレゼントするって聞いたことないけど」
「…ワシも」
「こっちは見つからない所に隠さなきゃ。てか、このプレゼントの使い道ないよ?メルカリにでも出す?」
「…そうだね。…でも、ワシらの以心伝心すごくない?これだけ子ども用のプレゼントが溢れている世の中で、相談なく全く同じ物を買うなんてさぁ」
「確かに凄いことが起きてるけど。以心伝心の意味違うよ。心が通じ合うことだから」
ついバッサリと一刀両断してしまった。
旦那は落ち込んだ様子で、プレゼントを手に庭に出た。ベランダから眺めると、庭の倉庫にプレゼントを隠しているのか、なかなか倉庫から出てこない。
ウチのサンタクロースは、どうも空回りをしがちだ。
子どもにプレゼントしたい気持ちが強すぎての空回りなのか、ウチの子好みのプレゼントを見つけてテンションが上がっちゃったのか。
「ねー!寒いから中に入りなよー!」
「ついでにちょっと片付ける」
なんか変なスイッチが入ったのか、上着も着ずに倉庫の物を庭へ次から次へと出している。
そのうち私も片付けに駆り出されるのが決定した。棚を雑巾で拭いてとか、この箱の物を仕分けして、とか。
今日はショッピングモールにでも旦那を誘おうと思っていたのに。
あーあ。
ため息を吐いたら吐く息が白い。
室内へ戻って旦那のダウンを引っ掴んで、ついでにラッピングしたスヌードも持つ。クリスマスにあげようと思ったけど、まぁ良いや。
「はいよ」
「なに?」
「プレゼント」
「ワシに?やった!」
本当に嬉しそうに笑って、どれどれとリボンを解く。
「おーありがとう!」
「うん。じゃあ寒いけど頑張って」
「行っちゃうの?」
「うん」
どうせ1時間もせずに呼ばれるのだ。
その頃、コーヒーでも淹れて持っていこう。
ひらひらと後ろ手に手を振って、私は家の中に入った。
プレゼント
「手、すごい荒れてんね。痛くない?」
「あー冬はいつもこう。かーさんがハンドクリーム?塗れって言うけど、面倒で」
「ダメじゃん」
俺の手の甲は、冬はいつもこう。
乾燥してガサガサして、一部は赤ぎれになってて血が滲む。
「早めに塗り始めな」
かーさんは冬が始まる前にハンドクリームを用意してくれる。
だけどなんか忘れて、まぁ良いやと完全に諦める流れがここ数年できている。
「あたしの使ってるやつだけど。手、出して」
隣の席の賑やかな部類の女子が話しかけてきた。言われている意味が今ひとつよくわからない。
手のひらを向けると、チューブタイプのクリームが2センチ降ってきた。
「これ、ハンドクリーム?柚子の香りがする」
「塗り広げると、もっと香るよ」
「へぇ」
ちょうど良い量だったのか、ベタつきもなくサラッと両手に塗れた。
そして柚子の香り。爽やかな柑橘系の香りは嫌いじゃない。寧ろ良い匂いだと思う。
手の甲を鼻にくっつけてクンクン匂っていると、ぷ、と吹き出された。恥ずかしくなって指を伸ばして目元を覆う。
目の前の彼女は耐えきれなくなったのか、可笑しい、と笑い出した。
「良い匂いだと思ったんだよ!」
ああ、逆ギレ。情けない。
「気に入ったならあげるよ」
今ひとつ笑いを納めきれていないまま、明らかにチューブの中身が残り少ないハンドクリームを渡してくれた。
「その手、痛々しくて見てられない。新しいのはあげないけど」
そう言いながらカバンから取り出した真新しいハンドクリームのビニールを破って、彼女は手に塗り広げた。
柚子が香る。俺の手と同じ匂いの、柚子が。
「これ、どこで買ったの?」
「ん?プラザ。イオンモールの」
「プラザかぁ」
明るい店内はいつも混んでいる。中学生くらいの女子から年上の女性でごった返してるイメージだ。
「買ってきてあげようか?今日、行こうかなって思ってたし」
一緒に着いてきて、は流石に言えなかった。流石に。非モテ、インキャの俺にはハードルが高すぎる。
「2本、頼んでも良い?」
「良いけど、めっちゃちゃんと塗ろうと思ってるじゃん」
えらいえらい、と笑ってくれたけど、実は。
「いや、ちゃんと塗ろうとは思ってるけど、かーさんにもあげようかなって。かーさん、柚子好きだし」
「へええー、めっちゃ良いじゃん。あたしもそうしよー」
じゃあまた明日お金ちょうだいねー、と彼女は去って行った。
なんとも思ってない子だったけど、好感度が上がった気がするのはちょっと嬉しい。
手の甲を鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。爽やかな柑橘系の良い香り。
あの子と同じ匂い。
「マジで今年こそはちゃんと塗ろうかな」
手荒れ治ったね、と柚子の香りを持つあの子に褒めてもらえるように。
ゆずの香り
木曽駒ヶ岳に登山した。
見上げる先には山頂と、抜けるような青空。
既に登頂した青い体操服に身を包んだ同級生たちが列を連なって下山し始めている。
「気持ち良い景色だなぁ」
隣に並んだクラス担任が同意を求めるように私に話しかけた。
「はい」
「体調は変わりないか?」
「全然大丈夫です!」
私はガッツポーズを作った。
登山前の千畳敷カールへ登るロープウェイの中で、私は一瞬意識を失った。
いわゆる高山病。急な気圧の変化に私はついて行けなかったらしい。
同じロープウェイに乗っていた担任に抱き抱えられ、着席していた一般のお客さんが慌てて席を譲ってくれた。
今も担任は、私のナップサックを持ってくれて、最後尾を一緒に歩いてくれている。
空が広い。
空を見上げると、マンションにも電柱や電線にも街路樹にも邪魔されず、ただ美しい青空が広がっている。
「星も綺麗に見えそう」
「さっきのロープウェイ乗り場、泊まれるぞ。満天の星空が綺麗でさ、あれはすげえ良かったなぁ」
「先生、見たことあるんですね」
「おお、元カノと…って、おまえ、俺の古傷を」
「先生が勝手に言い出したんじゃないですか」
こっちだって、元カノとはいえ、先生の女性関係なんて聞きたくなかったよ。しかもお泊まり星空デートとか。
しかも古傷になってるって。先生が心を痛めるほどに、好きだった人。
先生のことは何でも知りたいと思っていたけど、それは間違っていたんだなと実感してしまった。
はあ…ため息をこぼす。
青空は変わらず美しい。
山頂はずっと見えているのに、歩いても歩いても距離が縮まらない気がする。遠いなぁ。
「ちょっと休むか?」
「へ?」
「なんか顔色が良くない気がするんだよなぁ」
「先生が気にしすぎてるんじゃなくて?」
「そうかもしれないけど。って言うか、それもあるんだろうな。さっきビビったし」
「…すみません」
「まぁでも、大したことなくて良かったよ。こうして登山もできるし」
「先生が責任持ちます、ダメだと判断したら下山させますから、って言ってくれたから」
大学の登山部出身の先生が、心配する他のクラスの先生を説得してくれて、私は登山に参加することができた。
こうして澄んだ空気を吸い込んで山の景色に感動しながら、先生の優しさと心地良い疲れを感じている。
座って、水分補給をして、お喋りを少ししてから再出発する。
駒ヶ岳山頂が近づく。
ウチのクラスの登頂した人たちが、両腕をいっぱいに伸ばして私たちに手を振ってくれているのがわかった。
「唯ちゃんお疲れさまー!先生もおつー」
「お前ら、担任におつーはねーだろ。って言うか、ちっとも下山しねーで何やってたんだよ」
「えー先生なんて、おつで十分だよ。唯ちゃんと先生、待ってたの!クラス写真撮ろうよ!」
「ああ、そっか。サンキューな」
野外活動に帯同しているカメラマンにも先生は謝って、クラス全員で並ぶ。
先生は安定の端っこ。私はその隣。
クラス写真は、皆んなのやりきったような清々しい笑顔と少しだけ顔色の悪い私。先生の手には、私のナップサック。
そして抜けるような大空が広がっていた。
大空