女友達が失恋した。
「推しが、恋人ができたらちゃんと報告するっていつも言ってた。でも、言ってくれなかった」
「……色々難しかったんだろ。芸能人なんだから」
「だって、あたしの推しになる前はオープンにしてた」
「恋人をオープンにするのと、結婚をオープンにするのはワケが違うんじゃねーの?相手とか周りのタイミングとかでさ。知らんけど」
芸能人に失恋したらなかなかに厄介だ、と今になって初めて気づく。
女友達の頭ん中では、推しは芸能人の括りではないから。
「ツアーでも、ドラマの番宣でも、本のインタビューでも、言う機会はいっぱいあったのに」
「……結婚相手、妊娠してんだろ。安定期まで黙っておきたいのは普通のことだろ」
「やめて。妊娠だけは言わないで」
「すまん」
ずっと泣いてるけど。
ますますしゃくりあげ出して、鼻水はだーだーに口へ流れてる。
高校在学中のスッピン時代から知ってるけど、ハッキリ言って過去一ブスだ。
女友達のこと、昔からちょっと可愛いと思ってた。
芸能人の推しにリアコしてるのも知ってたけど、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。
だから失恋した彼女を慰めて慰めて、あわよくば、と女友達にとっては最低なことを考えていなかったわけじゃないけど。
俺は慰めるどころかどうにも彼女の傷をさらに抉ってるみたいだし、全然泣き止んでくれないし。
ファミレスでわんわん泣く女はかなり目立ってるし。
「お酒飲む。付き合って」
「酒はやめた方が…」
キッと睨まれてその視線にたじろいだ隙に、店に備え付けのタッチパネルを奪われた。
ハイボールのメガジョッキを2つ。
俺の分も頼みやがった。
「俺、下戸だって知ってるよな?」
「ちょっとなら飲めるの知ってるよ。残したら私が飲むから」
「ちょっとの量じゃねーじゃん」
「さっきから文句ばっかり。いーよ、あたしはひとりで飲むから。帰りたかったら帰って良いよ」
ハイボールをごきゅごきゅ飲み出した彼女をひとりにしておけるわけない。
泣き止んでくれたけど、酔ったらまた泣くかもしれないし。ってか、絶対にコイツは泣く。
俺は覚悟を決めてハイボールを一口飲む。
彼女はスマホを取り出していた。
推しの壁紙。チラッと覗くと、Xのハッシュタグで推しの検索をしてる。
俺はスマホを取り上げて、取り返されないように手を高く掲げる。
「返してよ」
「返したらまた推しの記事を見るんだろ。しばらく見ない方が良い」
真剣な顔と口調で言ったら伝わったように感じたから、スマホを返却すると彼女はバッグに放り込んだ。
涙をいっぱい溜めた瞳で俺を見た。
「あたしはどうすればいいの?」
…俺だって聞きたいよ。
泣いてる女友達、もとい泣き顔見て恋に落ちてしまった女の子を笑わせる方法を。
逡巡して……「とりあえず飲むか」とグラスをぶつける。
「下戸なくせに」
彼女が俯いて呟いた言葉は、涙声だった。
どうすればいいの?
子どもたちが3人で笑ってる。
それはもう屈託がなく、朗らかに。
口角の上がった大きな口で笑い声も大きくて。細まった瞳で、時には涙まで流しながら。
私は子どもたちの笑っている姿を見ると、楽しくなる。
時々私も話に加わって冗談を言うけれど、殆どは愉快な子どもたちをキッチンやソファから眺める。
楽しげな子どもたちの時間が続くように。
宝物が、『そこにあれば幸せで、無くすと後悔するかけがえのないもの』と定義できるのなら、私は幾つかの宝物の中でいちばん大切な宝物は、子どもたちの笑っている姿だと答えるだろう。
子どもたちに面と向かって口にするのは気恥ずかしくて、到底言えないけれど。
もしも言ったら、何と答えてくれるのかな?
ああ、でも、やっぱり恥ずかしくて言えないや。
今夜も子どもたちは3人で笑い合っている。
「めっちゃ楽しそうだね」と言ってみた。
その後に続く「お母さんも見てて楽しいよ」は言えなかった。
かけがえのない宝物に、宝物だよって伝えるのは難しい。
(だから人は手紙にしたためるのかもしれない)
宝物
中高年にもなると、あらゆる物事が記憶に残りにくくなる。
芸能人の名前、読めるけど書けない漢字、昨日何を食べたのか、ついさっきまで触っていたスマホをどこに置いたのか。
…思い出せない。
危機感を募らせて脳トレ本を買ってみたけど、3日坊主でその後手付かずになって、脳トレ本はどこへ行ってしまったのか。
…ダメ人間だなってほとほと情けなくて哀しくなる。
偶然、駅構内で中学校の同級生を見かけた。
私も急いでいたし、彼も急いでいたようで、早々に電車に乗った彼を見送ることしかできなかった。
でも、思い出したの。
私と彼が1年A組だったこと。
男女で振り分けられた名簿番号が近くて、ゴールデンウィーク明けまで席が隣同士だったこと。
シャーペンや消しゴムを貸してあげたこと。
「犬が好きなんだね」って笑ってくれたこと。
2年生、3年生とクラスが別々になって彼との接点がなくなった。
だけど私は彼の目に留まりたくて、得意だった長距離走を頑張って、市民陸上大会や市民マラソン大会の選手に選ばれるようになった。
彼も選抜陸上部。会話することはなかったけど、放課後同じグラウンドで練習メニューをこなす。
幸せだなって思ってた。
卒業式当日、校舎の隅で彼は女の子とふたりで写真を撮っていた。
同じ選抜陸上部で走っていた同級生。
真昼間の校舎がセピア色に染まり、音が聴こえなくなった。
彼と私は別々の高校に通った。
だけど通学に利用する電車は一緒の路線で乗り込む駅も同じ。
同じ車両で彼を見かける日々。
彼は卒業式の日、写真を撮っていた彼女と通学していた。
ふたりはいつも楽しそうに寄り添っていて、私は吊り輪に捕まりながら電車に身体を持っていかれないようにいつも踏ん張っていた。
どうしてこんなにたくさん思い出したんだろう。
中学と高校、片想いしていただけの彼に。
——それは初恋だからに違いなくて。
目が合った、喋りかけられた、些細なことで喜ぶ自分がとても好きだった。
だからきっと、たくさん思い出したんだろう。
本棚を漁る。
棚の奥に入り込んでしまったのかもしれないし、薄い本だったから、別の本の間に挟まってしまったのかもしれない。
あった。
なくした脳トレ本を見つけて、シャーペンかフリクションペンかを一瞬迷って、フリクションペンを手に取った。
あの頃と同じシャーペンは勿論無いし、消しゴムだって無い。
でも、あったとしても、私はフリクションペンを手に取りたい。
初恋の彼の思い出はたくさんあるけれど、でももう思い出は増えない。増やさない。
簡単に物事を忘れない自分になりたい。
物事を忘れて、情けなくて哀しくなる、そんな自分とサヨナラしたい。
私は、今を生きて、たくさんの思い出を作りたい。
些細なことで喜ぶ自分を、もう一度、少しずつでも取り戻したいから。
たくさんの思い出
冬になったらマフラーを巻こう。
ぐるぐるぐるぐる幾重にも首元に巻ける、とびきり暖かくて柔らかなマフラーを。
だからあたしは今、マフラーを編んでいる。
冬になったら愛犬に手編みの服を着せよう。
愛犬が気に入ってくれる、暖かくて脱ぎ着がしやすくてお散歩が楽しくなる手編みのセーターを。
だからあたしは今、カフェオレ色の愛犬に似合いの毛糸を選んでいる。
暖かい日が続いてるけど、寒い日が続いちゃったら、それはもう冬。
冬のはじまりに間に合わせるのは、
マフラーか愛犬のセーターか。
セーターに決まってる。
冬になったら、愛犬に似合いの手編みのセーターを着せてあげるね。
冬になったら
いつか別れの日が来ると、いつも頭の片隅で理解していた。
だって、あなたとの別れを覚悟して、あたしはあなたの看病をずっとしている。
いつも果汁しか口にしないのに、今日は朝からあなたは饒舌で気分が良いと果実を欲しがる。
あたしは不思議に思いつつも今日のあなたが元気なことを喜んで、蜜柑を一房口に入れた。
数時間後の今、あたしはあなたにキスをしています。
眠るように息を引き取ってしまったあなたに。
あなたが息をしていないことがこんなに寂しくて辛いなんて思わなかった。
あたしの涙の雫を指先で二度と拭ってくれない。
はなればなれが永遠に続いていく。
はなればなれ