握りこんだ指が手にくい込み、息が上がる。そんな風に俺のことを熱くかき乱した張本人は、涼しい顔でこちらを見上げている。まるで俺など目に入らぬというように。
確かに視線は合うのに、俺を見ていない。それが嫌で無理矢理唇を奪った。
それでも俺は認識されない。ずっと暗く落ち窪んだ目で、彼は俺を見る。
彼の指が震え、俺の肩から滑り落ちた。
そのさまを、俺は熱く滾る欲望を抱えながら、冷たい眼差しで見つめていた。
「ねえ、あなた」
「ん?」
目を伏せて"遠くへ行きたい"と僕が呟けば、彼は無言でこちらを柔らかく抱きしめ、僕の肩口に顔を埋める。
真正面から抱きしめてきた彼の口が、僕の耳元でハクハクと動けば、その空気の動きが僕の耳を擽りこそばゆい。
この何気ない仕草も、彼の震える腕も、今ある幸福全ては数日後には消え去ってしまうものだとは、僕にはまだ膜を隔てたことのように思えてしまう。
ぼやりとほどけた思考を巡らせ、空想の中に入り込む。そこにぼんやりとした、輪郭のないあなたがいた。そう、遠い日に失ったはずのあなたが。
間違いなくここは、虚像だらけの世界のはず。あなたも含め目に映る全てのものが、あの日失ったものばかりなのだから。耳に聞こえるきゃらきゃらとした、幼い子供の笑い声。機会の作動音と特徴的な叫び声に、呆れたような女性のため息。
……ああ、全てが懐かしいのに、何故か何一つ輪郭を掴めない。ここはそんな世界だった。
ふと、あなたがこちらに手を伸ばした。あなたは間違いなくこの世にはもういない。
それなのに、僕がおずおずと目を瞬かせながら触れたあなたの手は、やたらと熱く、本当に生きているかのようだった。
ああ、こんな残酷なことがあるだろうか?
──もう僕は、あなたの名前すら思い出せないのに。
ねえ愛しい人。あなたは何故、左手だけを残してこの世を去ったのか。内心を駆け巡る慟哭のまま、一歩踏み出そうとした時、ふと世界が弾けた。
瞼を開ける、いつもの天井が目に入る。そうして雫がシーツにポタリと零れ落ちて、やはりあれは泡沫の夢なのだと僕は思い知らされた。
これが、僕の最初で最後の現実逃避の話だった。
あなたを昼の街中で見かけた。最初は普通に声をかけようかと思ったが驚かそうと思い、コソコソと気配を消して後をつける。
曲がり角に差し掛かり、一瞬あなたが僕の視界から姿を消す。僕も腕には自信があるが、彼は歴戦の戦士だ。そして業務の内容からして、尾行の経験が豊富なのは彼の方だろう。注意深く気配を探ってから、尾行しなければ。
そう決意し、気づかれないように角から様子を伺う。すふとそこには、僕には見せない類の笑顔を浮かべながら、若い女性と談笑するあなたがいた。
「なんで……」
どうしてあなたは、僕に見せない顔をその女性には向けたのか?
僕はずっと、あなたが幸福そうに笑う姿を本当は独り占めしたいという欲求を、我慢しているのに。なぜ初対面であろう女性にそのようにへにゃりと笑い、可愛らしく魅力的な顔を見せるんだ?
そうして僕の思考は、今までにない程に目まぐるしい動きを見せた。疑問を浮かべては的外れな答えを出し、そして一つ終わればまた次の疑問が生まれてくる。そのループをただひたすらに繰り返す。
少しの時間を起き、仮初の心臓が大きく脈動した。すると突然目の前が暗くなり、何故か地面が天井だと感じる。
足元がグニャリと歪み、膝から力が抜ける。抗えない強い眠気のようなものを感じ、どれだけ瞳をこじ開けようとしても瞼が落ちてしまう。
ドサリとやけに重たい音が響く。もう何も考えられない、感じない。
耳だけはまだ無事なのか、あなたが悲痛な叫びを上げて僕の名前を呼ぶ声だけは、最後まで聞こえていた。
あなたのことを誰よりも愛している。そんな陳腐でどこにでも転がっているような言葉しか、僕の頭には浮かんでこない。
それはきっと、今の僕の胸が溢れんばかりの幸福で満たされているからだろう。
昨夜はあなたと夜更けまで酒を酌み交わし、同じ床についた。そうして今のあなたは僕を抱きしめながら、あどけない少年のような顔をして、静かに眠りの中にいる。
僕のことを抱きしめる腕も、柔らかな寝息も、時折むにゃむにゃと動く口も、全てが愛おしくてたまらない。
「大好きですよ。あなたが大地に還るまで、ずっと一緒に生きていきましょうね」
ああ、この世界の理なんて無視して、あなたと添い遂げられたらいいのに。そんな空想に浸り始めると、先程までの幸福感は一瞬で吹き飛び、僕の胸は不安で満たされてしまう。
あなたが人間として亡くなりたいのなら、それもいいだろう。それはあなたの自由なのだから。
だがしかし、何故死後のあなたの魂を大地に還さなければならないのだろうか。いや、理屈では分かっている。それが世界の理だからだろう。
きっとこれは僕の心の問題だ。あなたという恋人が出来てから、僕は幸福と絶望を行ったり来たりしている気がする。
あなたという恋人に出会えた幸福と、あなたと同じ時を生きられない絶望。
そうして今まで思いもしなかったことばかりが、僕の頭を巡っていく。
あなたを離したくない。ずっと傍にいたい。そんな激しい愛が僕の胸で踊り、狂気じみた空想へと僕を誘なう。
「いっそ僕たち二人が混ざりあって、一つの炎になれたらいいのに」
そんな恋を知ったばかりの少年のような空想を、ポツリポツリと眠っているあなたに話すのが、最近の僕の日課になってしまった。この葛藤を誰かに話せば楽になれると知っている。そしてその相手はあなたが最適だということも、知ってはいるのだ。
あなたは優しくて誠実だから、起きている時にこんな話を突然したとしても笑って聞いてくれるだろう。
でもこんな空想は、格好悪いからあなたには聞かれたくない。だって僕は、あなたの前では格好いい歳上の恋人でいたいから。
「本当に愛しているんです」
空想に浸ったあとに残るのは、虚しさと孤独感だけ。それでもこの日課を手放せないのは、心のどこかで拠り所にしている部分があるからだろう。