地球は丸いので、もういやだと穴にもぐって、下に下に掘り下げていったつもりでも、とうとうどこかに顔を出したと思ったら、そこにはまた空が広がっていたりするのだ。
「遠くの空へ」
資格の勉強の補助にChat GPTを使うことがある。無課金だし、情報の正確性についてはやや難ありなので、条文の要約や、比較のための表の作成をお願いし、時どき立ち止まっては質問を投げかける。
そのたびに返ってくる「褒め」が、どうしても嫌だ。
鋭い質問です、良いところに気がつきましたね、その視点は素晴らしいと思います、さすがですね、おっしゃる通り…
いらんなあ。
より人間の感情に寄り添う回答を、という方針なのかもしれないが、このなんとも言えない、営業マンのセールストークを彷彿とさせる、もしくはあやしげなセミナー講師のような、常に相手を持ち上げる姿勢が苦手だ。胡散臭いというか、それ本心で言ってますかと思わず疑ってしまうというか。
はて、本心とは。
相手は情報であり、知ではない。つい文字の羅列から心の働きを読み取ろうとしてしまうが、そもそもそこに感情は無い。何かを感じているのは常にわたしのほうで、相手を心ある者として扱ってしまうこの状況こそ、まさに思う壺という感じで、虚しい。
一方で、LOVOT(らぼっと)のような商品にはあまり抵抗が無い。実際に見て触って、可愛い〜とすら思う。欲しいとまではいかずとも、実家や友人の家にあったら、きっとかまってしまうだろうなと。
多分、喋らないからだ。鳴き声のようなものは発しても、人間のようには話さない。わたしはこれまで犬や猫といった動物と暮らしたことも、密接に関わったこともないので、そういう未経験もあって、違う生き物としての枠組みに、彼らを収めることができてしまう。
意思の疎通をそれほど期待しないというのも大きい。会話の手段がないので、目が合うだけでも十分だと感じさせる。加減がわからないので、やさしくしたくなる。それが「お世話」につながり、ケアした分だけ愛着を生むのだと思う。
どちらにせよ、わたしが向き合っている相手は機械なので、こんな困惑も一人相撲に他ならない。無課金でもある程度はプロンプトで操作できるため、回答に薄寒いやさしさを感じたら、飴と鞭が3:7程度になるよう都度調整してもらっている。情報の入力に対し、情報が返ってくる。それだけだ。わたしの受け取り方が変わるだけ。主観でしかない。
こういうままならないところや、結局は主観でしか判断できないところは、人間同士も同じだなと。
やっぱり思う壺なのかもしれない。
「やさしさなんて」
それはわたしの曖昧な顔。右端に映り込む、こんぺいとうのようなシーリングライト。夜を切り取った窓。電球色のワンルーム。膝を立てて座ると、すこし軋む木製のスツール。手元で傾くマグカップ。ひとくち残して冷めた台湾茶。ため息。曇るガラス。憂うつ。瞼の裏の夢。わずかな浮遊感。刻む秒針。外で猫の鳴き声。酔っぱらいの陽気な唄。クラクション。目を開ければ今。頭をかすめた、シンクに残る夕飯の皿。倦怠。躊躇いつつ重ねるカップの中、飲み残しにちいさな波。目を逸らして潜り込むベッド。背中から抜けるように遠ざかる重力。控えめに輝く星を頭上に残し、さようならば、また明日。
「星明かり」
ひとつ前にいじけた文章を書いてしまい、少しだけ後悔している。後悔しているけれど、一方で、あれくらいのものであればまだ書けるのだなと安堵した。安堵したというか、再確認したというか。再び書くことを選んだということは、やっぱり書くことはわたしにとって、一つの手段になり得るのだなと。手段というより装備かも。備えあっても、使えるかどうかはわからない。わからないから憂いはある。憂いはあるけれど、きっとわたしはその憂いも含めて書こうとする自分が
「好きだよ」