ばに

Open App
8/17/2025, 4:53:24 AM

地球は丸いので、もういやだと穴にもぐって、下に下に掘り下げていったつもりでも、とうとうどこかに顔を出したと思ったら、そこにはまた空が広がっていたりするのだ。



「遠くの空へ」

8/11/2025, 4:24:43 AM

資格の勉強の補助にChat GPTを使うことがある。無課金だし、情報の正確性についてはやや難ありなので、条文の要約や、比較のための表の作成をお願いし、時どき立ち止まっては質問を投げかける。
そのたびに返ってくる「褒め」が、どうしても嫌だ。
鋭い質問です、良いところに気がつきましたね、その視点は素晴らしいと思います、さすがですね、おっしゃる通り…

いらんなあ。
より人間の感情に寄り添う回答を、という方針なのかもしれないが、このなんとも言えない、営業マンのセールストークを彷彿とさせる、もしくはあやしげなセミナー講師のような、常に相手を持ち上げる姿勢が苦手だ。胡散臭いというか、それ本心で言ってますかと思わず疑ってしまうというか。
はて、本心とは。
相手は情報であり、知ではない。つい文字の羅列から心の働きを読み取ろうとしてしまうが、そもそもそこに感情は無い。何かを感じているのは常にわたしのほうで、相手を心ある者として扱ってしまうこの状況こそ、まさに思う壺という感じで、虚しい。

一方で、LOVOT(らぼっと)のような商品にはあまり抵抗が無い。実際に見て触って、可愛い〜とすら思う。欲しいとまではいかずとも、実家や友人の家にあったら、きっとかまってしまうだろうなと。
多分、喋らないからだ。鳴き声のようなものは発しても、人間のようには話さない。わたしはこれまで犬や猫といった動物と暮らしたことも、密接に関わったこともないので、そういう未経験もあって、違う生き物としての枠組みに、彼らを収めることができてしまう。
意思の疎通をそれほど期待しないというのも大きい。会話の手段がないので、目が合うだけでも十分だと感じさせる。加減がわからないので、やさしくしたくなる。それが「お世話」につながり、ケアした分だけ愛着を生むのだと思う。

どちらにせよ、わたしが向き合っている相手は機械なので、こんな困惑も一人相撲に他ならない。無課金でもある程度はプロンプトで操作できるため、回答に薄寒いやさしさを感じたら、飴と鞭が3:7程度になるよう都度調整してもらっている。情報の入力に対し、情報が返ってくる。それだけだ。わたしの受け取り方が変わるだけ。主観でしかない。
こういうままならないところや、結局は主観でしか判断できないところは、人間同士も同じだなと。
やっぱり思う壺なのかもしれない。



「やさしさなんて」

4/20/2025, 2:32:55 PM

それはわたしの曖昧な顔。右端に映り込む、こんぺいとうのようなシーリングライト。夜を切り取った窓。電球色のワンルーム。膝を立てて座ると、すこし軋む木製のスツール。手元で傾くマグカップ。ひとくち残して冷めた台湾茶。ため息。曇るガラス。憂うつ。瞼の裏の夢。わずかな浮遊感。刻む秒針。外で猫の鳴き声。酔っぱらいの陽気な唄。クラクション。目を開ければ今。頭をかすめた、シンクに残る夕飯の皿。倦怠。躊躇いつつ重ねるカップの中、飲み残しにちいさな波。目を逸らして潜り込むベッド。背中から抜けるように遠ざかる重力。控えめに輝く星を頭上に残し、さようならば、また明日。



「星明かり」

4/5/2025, 12:06:04 PM

ひとつ前にいじけた文章を書いてしまい、少しだけ後悔している。後悔しているけれど、一方で、あれくらいのものであればまだ書けるのだなと安堵した。安堵したというか、再確認したというか。再び書くことを選んだということは、やっぱり書くことはわたしにとって、一つの手段になり得るのだなと。手段というより装備かも。備えあっても、使えるかどうかはわからない。わからないから憂いはある。憂いはあるけれど、きっとわたしはその憂いも含めて書こうとする自分が



「好きだよ」

4/5/2025, 8:02:43 AM

 書かない期間が5ヶ月ほどありました。
 できるだけ違う文体で、キャラクターで、方向性で、決められたお題の中、多角的に書く練習をしようと始めたものの、実はそれほど書くことが好きではないのかもしれないなと、いらんことに気づきつつあり。
 「できる」と「好き」の違いから、ずっと目を背けてきた人生でした。

 先日、業務関連で書いた文章に高い評価をいただき、やはり書くことが得意ではあるのだという実感を得ました。
 一方で、書かなくても生きていける、必須では無いということも、空白の5ヶ月が証明しました。沸々と煮えたぎり、どろりと溢れるような情熱が、わたしの根底には無い。感情の発露も、衝動も無い。書かなくても、なーんてことはなかったのです。あーあ。
 過去に一度でも、物語を完結させた経験があったか?そもそもそれが無いので、こんなことを考えるまでもないというか、わたしは一体何を根拠にしがみついていたのだろうと、もはや不思議ですらあります。
 いや、不思議ではないか。心当たりはある。

 父はアマチュア劇団に所属していて、時々は脚本も書いていました。定職に就かず、印税生活を夢見て、ワープロに向かっていた背中を覚えています。
 一度だけ、設備の整った会場で、10人以上の役者と、ミュージカル劇を催したことがあります。わたしもそれを観ました。もう20年以上前の話ですが、その時の記憶はかなり鮮明です。記録用に撮っていたビデオを何度も観たので、今でも劇中歌を口ずさむことができます。覚えているセリフもあります。
 もともと、幼稚園のお遊戯会や、ピアノの発表会が好きなタイプの子どもだったので、演劇の世界には大いに魅了されました。将来はこの世界に行きたいと思ったこともありました。役者にも憧れましたが、何よりひとつの世界を創り上げるひとになりたかった。演出家、脚本家、目指すものに何が合致するのかもはっきりとわかっていませんでしたが、これがお花屋さんやパティシエになりたい気持ちと、また少し違うものであることは自覚していました。
 そんな夢も、進路相談で母に言われた「そんなことしてなんになるの?」ですっかり萎んでしまったのですが、萎んでしまうほどの訳が、それまでの十数年にはあったのです。
 結局のところ父は、夢に向かって努力することの尊さを、わたしたちに見せることができませんでした。彼は劇団を喧嘩別れで離れ、その後は執筆もせず、どの仕事も長続きせず、怠惰に生き、生活習慣から大病を患い、その人生と家計の全てを母が支えることになりました。わたしが夢について話したとき、母が何を思ったかは想像に容易く、わたしには返す言葉もありませんでした。それを覆すほどの自信も。
 母は時々、わたしに対して「書く才能がある」と言います。父と違って、それがあると感じるのだそうです。しかし、それはあくまで趣味や副業としてするものであって、本業にはなり得ぬものだと。
 わたしは宝箱に燃え滓をしまっている。

 書くことはできる。書いてなんになる?好きではない。嫌いでもない。好きだったかも。書くのは楽しい。書くのはつらい。できるけど足りない。足りない。気持ちが足りない。
 だって、「桜」なんてお題、なんでも書けそうなのに、なんにも思い浮かばないもの。
 わたしの名前はばにです。ばには馬肉のばにです。近所の川沿いで桜が満開になると、花見を口実に母を呼んでしまいます。桜はそれほど好きではありません。



「桜」

Next