無色、と聞いて思い浮かべるのは何色だろう。白?黒?グレー?いずれにせよ色ではあるので、「無」ではないような。屁理屈かしら。
有る(在る)状態を思い浮かべるのは簡単でも、無い状態を想像するのは難しい。一旦有る状態にして、それを消す、という作業はできても、何も無いということを思い浮かべられない。宇宙のはじまりを思うことと同じで、そこにはすでに何か(例えば「空間」)が存在している。キャンバスや箱の概念から逃れられない。
わたしの場合、無色は白だ。でも、もしも画用紙が黄色だったら、無色は黄色だったかもしれない。
「無色の世界」
普段から自分のものではない大量の札束を目にする機会があり、もはやコピー用紙と同じような感覚で触れている。これらはただの、ちょっと特殊な絵柄が入った色紙であり、破れるし、燃えるし、山羊も読まずに食べるかもしれない。それがどうだろう、世に出て人の手に渡れば、色々なものと交換できるのだから不思議なものだ。それを使う全員が、同様の価値を信じていなければ成り立たない。しかも、実物以上の価値を。この共通認識には、時折改めて新鮮に驚かされる。
さて、先立つものと言えばまずお金だけれども、これまでに得たもの、例えば幸いな記憶、向けられた愛情、心震わす経験や身を助ける知識なんかを、お金に換えるから差し出せと言われたら、わたしは手放せるだろうか。
愛か金かと聞かれたら、あまり迷いなく金だと言ってしまう。そのとき考えているのはこれから得るもののことで、わたしを取り囲む愛する人々を「金の柱に変えましょう」と言われたら、きっとわたしはフェアリーゴッドマザーの杖をへし折って、中指を立てるに違いない。
そこに答えはあるのだろう。
それでも、財布が空なら明日のパンも買えないし、王子様と金塊だったら、やっぱりわたしは金塊を選んでしまうかもしれない。親戚付き合いとかしんどそうだし。
「お金より大事なもの」
空知らぬ雨
人知れず樋かける
あふれる前にこぼせ玻璃瓶
「溢れる気持ち」
ほーーーーーーーーんとうに日記って続かないんだよなあ。長音の間に眼球をぐるりとひとまわりさせ、はーあ、という感じ。
行動の習慣化には2ヶ月ほどかかるって、そうなんです?もう10年以上8時台始業の仕事をしていますが、それじゃあいつになったら6時にオートマティック起床できるようになるんですかね。
楽することはすぐ身についちゃうのにね。
書こうと思って買った日記帳(になるはずだった素敵な装丁の分厚いノートたち)が、きれいな硬い表紙とパリッとした美しい白紙を保って、何冊も本棚にまぎれている。それでも書くことは好きで、ときどきこうして思い出したように筆をとる。いや、親指を滑らせる。だからやっぱりノートは閉ざされたままで、そのうち気まぐれでウィッシュリストを書き込まれたりなんだりするのだろう。
背表紙の金の箔押しが、咎めるようにきらりと光る。
いつか、今よりずっと老いた先で、もっと色々と書き残しておけばよかったと、後悔するだろうか。ひとりになって、話し相手が自分しかいないとき、過去の自分が雄弁であればと、うらめしく思う日が来るだろうか。
だとしたらわたしは、もっと書いておかなければならない。
きのうディズニーシーでピーターパンのアトラクションに乗って、いつまでも子どものままでいられたらと泣いたこと。今日食べた冷凍のフライドポテトが美味しくて、同じ店に追加で3袋買いに行ったこと。気になるフランス製のバターがあること。週末は台湾に行きたいこと。いくらとサワークリームのクレープが食べたいこと。やりたいことも行きたい場所もいっぱいある中で、毎日毎日推しを眺めながら、なんとか正気を保って頑張って仕事に行っていること。
そんな物語にもならない、くだらない日常でも、まあ、白紙のノートよりちょっとは面白いでしょう。ね。油性のマジックペンでサインも添えておくから。
「閉ざされた日記」