『天国と地獄』
青空には沢山の魚が泳いでいて、近所のパン屋さんが毎朝、青空に向かって焼きたてのパンを放り投げるんです。
そのパンに群がった魚で雲ができて、パンを食べた魚はお腹が膨れ、感謝の涙を流します。
「ありがとう」
「ありがとう」
近所のパン屋さんは、とても凄い人なんです。
虹の滑り台で遊びたいと思いました。
星空の海を泳ぎたいと思いました。
沢山の人と友達になりたいと思いました。
小さい頃の友達はコオロギです。
捕まえては名前をつけました。
「太郎」
「次郎」
「花子」
「陽子」
最後はみんなが帰っていくのを見送りました。
私から逃げるように跳ねては、草むらへと消えていくんです。
寂しいけれど仕方がないんです。
友達だと思っているのは、自分だけなんですから。
夜空の月を観ました。
ドロリと輪郭が溶けていって、それは天の川になりました。
川を覗くと星達が泳いでいます。
月の周りで星達が感謝します。
「ありがとう」
「ありがとう」
これで月は寂しくありません。
昔から今まで、私はついに変われませんでした。
秘密主義で自己愛が強く、空気の読めない理想主義者です。
誰かに頼らなくても、何だかんだと生きていけます。
これまでだってそうでした。
人が楽しそうにしてるのを見るのが好きです。
……混ざろうとは思えません。
幸せそうに笑ってる人が大好きです。
……自分には無理でした。
たまに誰かと話したくなって、人里に下りてくる熊みたいに人と関わろうとします。
でも結局、その度に自分の爪や牙が誰かを傷付けてしまうんです。
何時だったか、私はあまり人とは関わらない方が良いんじゃないかと、白々しくそう思いました。
本当は昔から分かってたんです。
解ってたんですけどね。
何だか寂しくって……駄目ですね。
『風に身をまかせ』
線香の煙がたなびいては消えた
風に揺られては薄くなっていく
「記憶に残った、あなたの顔みたいだね」
線香の煙が立ち上っては消えた
風に揺られては散らばっていく
「記憶に残った、あなたの声みたいだね」
写真のあなたは変わらないから
幾年経っても変わらないから
毎日わたしは線香をあげる
あなたの為のおくりもの
線香の煙が私を巻いては抱きしめる
風に揺られては身をまかせていく
「忘れちゃった、あなたの温もりみたいだね」
『1つだけ』
古い時計の振り子が揺れる
重くて鈍い音を刻む
数字の並んだ時計盤には
ひしゃげた針が一つだけ
忘れ去られた庭園が荒ぶ
哀愁と寂寥の風が吹く
朽ちゆく老木の枝の先には
散らぬわくら葉が一つだけ
黄ばんだ手紙が床へ散らばり
微かな追憶を部屋にもたらす
思い出すのは一つだけ
過去の約束を一つだけ
その恵まれた一つによって
私の世界が満たされたんだ
『好きじゃないのに』
昏い感情を口から吐き出し
平気な顔して痴態をさらす
後から理由を探しては
勝手に自分で暗示をかける
『綺麗事では生きられない』
『それがこの世の常だから』
『何があっても仕方がない』
『世の中そんなに甘くはない』
嫌いな台詞を着飾って
尖った言葉でヒールを履かせる
貶し貶されワルツを踊れば
足を挫いて共倒れ
こんな世界が嫌だと叫べば
怠惰な奴だと罵られ
綺麗な世界が欲しいと願えば
馬鹿な奴だと嗤われる
好きでもないのにしがみつき
好きでもないのに生きている
それでは道理が通らないから
それが全てじゃないんでしょうね
『夢が醒める前に』 205
「お前は覚えているか?」
安楽椅子に座る老人が投げかけた言葉は、誰もいない部屋の暗闇へと溶けていった。
咥えたパイプから紫煙を燻らせ、目を閉じたままの老人は背もたれへと深く沈む。
十字の木枠に嵌められた窓から覗く風景は、少しの月明かりに照らされた何かのシルエットしか映さない。
頼りない光量の吊り下げ灯と、煉瓦で造られた暖炉の炎が、老人の陰影を色濃くさせる。
「優曇華の花が咲くほどではないが、それでも長い時間が過ぎた。
俺は覚えている。
あぁ……覚えているとも。
忘れるはずがないだろう?」
隙間風が吹く度に、吊り下げ灯がゆらりと揺れる。
キィ キィ キィと音が鳴る。
「俺も歳をとった。
当時は分からなかったことも、今ならある程度理解ができる。
お前には苦労ばかりかけさせた。
俺は何も知らない小僧で、分からないことを免罪符に愚かなことばかりしていた」
隙間風が吹く度に、暖炉の炎がゆらりと揺れる。
パチッ パチッと音が鳴る。
「今さらになって懺悔ができる。
なんの意味も無い行いだ。
みすぼらしい老人の自己満足だ」
老人が安楽椅子に座っている。
「死ぬのは別に怖くない。
お前に会うのが怖いんだ。
お前が俺を忘れていたら……そう考えると震えが止まらなくなる」
咥えたパイプからは紫煙が昇る。
「俺も……歳をとったんだ。
笑いたければ……笑うがいいさ。
お前が笑ってくれるなら……それはそれで……悪くない……」
背もたれへと深く沈んだ老人の目は──
「あぁ……悪くない」
──今も変わらず閉じたままに。