ラーメンが食いたい。
アルコールで朦朧とした頭でぼんやり思った。
街路樹にもたれて夜風を感じていると、居酒屋から聞こえる喧騒も、雑居ビルの光る看板も、どこか他人事というか、別世界で起こっていることのように感じられた。
その世界の表層に、落ちきれないかさぶたみたいに、俺の存在がぺらりと乗っている。そんな感じ。
「先輩、大丈夫ですか」
振り返れば、後輩の山越である。
「ラーメン……」
「ラーメン?」
「ラーメンが食いたい」
「飲み過ぎですよ」
この業界の経験年数は俺より半分なのに、俺より仕事ができる、K大卒のエリート。
「水飲みます? ベンチ座りますか?」
嫌な顔ひとつせず仕事をこなし、誰に対しても物腰は柔らかで、非の打ちどころのないヤツ。社内で彼を嫌いな人間はいない。
俺以外は。
「ラーメンだって、言ってんだろ」
コイツがこの部署に来たから、俺は飛ばされたんだ。
「何で分かんないかなあ。豚骨の、こってりの」
「どうしたんですか。なんか、変ですよ」
俺はコイツが憎い。顔を見るたびに嫌気がさす。コイツさえいなければ。
「違う違う、醤油だ醤油! さっぱりの、それでいて背脂たっぷりの」
何が一番嫌いかって、コイツを憎んでしまう自分自身だ。何も悪くない後輩を、こんな風に困らせてしまう自分自身だ。
「やっぱり塩みそ坦々麺ニンニクカラメ……」
「先輩」
山越が俺の背中に触れる。
「気を落とさないでください。僕、分かってますから。先輩がこの部署の誰よりも頑張ってたこと」
「うるさい!」
思わず彼の手を払いのけてしまった。
戸惑うK大卒の顔なんて、見ものじゃないか、なんて考えてしまう自分がいる。
ごめん。ごめん。そんなつもりは。
「ラーメン……食いたいんだよ……」
俺は最低だ。街路樹にもたれてうずくまる。
再び山越の手が背中に触れる。優しく背中をさすられる。
懲りないヤツ。
これじゃ、どっちが年上だか分からない。
【お題:たった1つの希望】
「ヒロくんって欲なさそー」
ハルカはキャッキャと笑いながら僕の肩を叩く。
「そうか?」
「なんかそんな顔してる」
「顔ってなんだよ」
「顔は顔だよ。行こ」
ハルカは僕の服を引っ張りゲームセンターの中へ進んでいく。
夜のゲーセンは一人だと怖いからついてきてほしい、と彼女に連れ出されたのだ。
目当てのぬいぐるみがUFOキャッチャーの景品になったから、それを手に入れたいとのこと。
ゲーセンのガチャガチャした騒音の中、ビカビカと派手に光る筐体の間を、彼女はひらひらと通り抜けていく。僕はその後ろに続く。
「友達にはさあ、オタバレしたくないし。なーんか丁度良いんだよね、ヒロくんって」
「あっそ」
彼女が屈託なく笑う。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「あった! 良かった、まだ残ってて」
彼女は財布を取り出す。勢いよく開けたせいで小銭が散らばる。
「あーあー」
100円玉が筐体の下へ転がる。彼女は躊躇なく屈んで床に手をつく。
ゆるいTシャツの襟元がたわんで下着が見える。
欲がなさそう、か。
ないと思われてるのは、正直なところ、癪に触る。
「いいよ、拾うから」
「なんで?」
「いいから、どけよ」
「えー」
僕は拾った100円玉をハルカに返す。
「ありがと」
「さっさと取って帰るよ」
「イヤ。取れるまで帰らんし」
そりゃ、僕だって帰りたくないけどさ。
僕はまだ、彼女にとって優しい人間のままでいたかった。
【お題:欲望】
横浜線に乗って外へ出かける。
仕事の日は町田駅で降りるけど、今日は通り過ぎてもっと遠くへ行く。終点の桜木町まで。
町田の雑多なビル街を通り過ぎると、ぱっと視界が開けた。
線路が高い位置にあるのか、住宅地が眼下一面に広がる。その家の多さときたら、めまいがしそうだ。
人間って小さいんだな。
あんまり悩まなくても良いのかな。
今どきはネットでなんでも調べられるし、遠くの街の観光名所も、美味しいカフェも分かる。マップ機能を使えば、まるでそこを歩いているような感覚になる。
そこで君を見つけた。パソコンの画面に映る遠い街の画像の中に
【お題:遠くの街へ】
初恋の人と名前が同じだ。
名前っていうか、正確には名字だけど。そんなことを思いながら、京急蒲田駅で下車する。
電車が走り去る。
小学校の時、誰にでも優しくて、教室の隅で本を読んでいた私にも声をかけてくれて。
冬の間はいつもPUMAのロングジャンバーを着ていて、それが彼のトレードマークで。
でもそれを脱いでバスケをする姿もかっこよくて。
卒業式の後、胸に花を差した彼が教室から出て行こうとしている時、少しだけ時間の流れが止まった気がした。もし今好きだって伝えたらどうなるんだろうって。
でも、なんの取り柄もない私に応えてくれるわけないと分かっていた。だからこれはエゴだと。
好きだと伝えて、彼を困らせてみたい。この一瞬だけ、私が彼の視野に入れたら、それで満足なんだ。私は。そこまで考えて、自分の考えに嫌気がさして、結局何も言えないまま、彼の後ろ姿を見送ったのだ。
「はあーニンニク食いたい欲がマシマシですよ、もうこれはニンニクマシマシですよ」
今どうしてるかなあ、蒲田くん。
ホームに「夢でもし逢えたら」のメロディが流れて、少しだけ胸が痛くなる。
「あっ!!」
隣にいた田中がでかい声を出したせいで、私は現実に引き戻された。
「なに」
「シュッシュ忘れた!!!」
「シュッシュ?」
「これこれ」
田中は口内にスプレーする仕草をしたが、すぐにやめた。
「まあーいいや。先輩と行くんだし」
「私と行くから、なんだって?」
「別にニンニク臭くてもいいや」
「おいっ!」
蒲田の町は羽根つき餃子が名物らしい。
そんな話を会社でしたら、成り行きで後輩の田中と連れ立って行くことになって。
「ていうか、羽根つき餃子ってそんなにニンニク臭いの?」
「餃子って言うからにはそうでしょうよ」
「えー」
「先輩もシュッシュ禁止ですよ」
「はあ!?」
「びょーどーに行きましょーよ、びょーどーいん鳳凰堂ですよ」
「うん、分からん」
ほんと分からん、この田中という男は。
暖かな春の風がホームを通り抜けていく。
蒲田くんは今、どうしているだろう。
分からないけど、私はなんだかんだ楽しくやってるよ。
【お題:君は今】