カレンダー
東京に就職で、出て行った一人娘の春奈。
久しぶりに電話がきたと思ったら、「お母さん、何も聞かないでね…私今お腹に赤ちゃんがいて妊娠5ヶ月に入ったところ。びっくりさせてごめんね。
一人で産むって決めたの。お母さんには迷惑かけないから。」
娘の声は、どこか不安でそれでいて嬉しそうだった。
あの子が悩んで決めたこと。
私もそっと見守ろうとおもった。
カレンダーを見たら5月3日だった。10月のカレンダーに、春奈、予定日と書いた。
明日から、近所の神社にお参りにいこう。
新しい命と娘のために。
喪失感
「君はぼくが今目の前からいなくなっても、悲しくないの?」
そんなことを口にされても、私は涙すら浮かべられない。
いつも私の感情は、少しズレているから…。
恋人に別れ話をもちかけられても、泣いてすがることすら出来ない。
涙は決まって、一人きりの暗闇の中でしか流せない。
「ひとみ、お父さんはお前のことをずっと忘れないから。元気でお母さんとおばあちゃんと仲良くやるんだよ。」
お父さんの肩車が大好きだった。
でも…あの夜も私は泣き顔を父に見せることは出来なかった。
悲しいのに。淋しいのに。
電気の消えた真っ暗な部屋の片隅で膝を抱えて、一人泣いた。
私の前から、大切な人が消えてなくなるとき。
喪失感だけが残った。
感情が溢れてくれたらいいのに…。
とてつもない喪失感と引き換えに、自分を呪った10代と20代。
今なら、あの時の私に言える。それでも大丈夫だよ、何も悪くないよ、と。
30代になった私は、自分で自分を慰める術を手に入れた。
明けない夜がないように。
独りの暗闇から、静かに抜け出した35歳の春。
胸の鼓動
走るのは得意だった。
今年の夏もリレーの選手に選ばれた。放課後の校庭でバトンの渡し方の練習を何度もした。
いよいよ運動会当日。朝から緊張する私に、「おにぎり、小さめに握ってあるからね。」と微笑む母。
何か口にしなければと、カウンターテーブルの上のバナナをチャージする。
午前の部の最後の種目がリレーだ。隣のかずよちゃんに、ハチマキを結び直して貰う。
「リレーの選手の人は、次の種目なので集まってください!」放送が入る。
ドキドキする。胸の鼓動が高鳴る。ピストルの合図でランナーが走り出す、白いハチマキの選手が前に躍り出る。その差はわずかだ。次々とバトンが渡り、最終ランナー私の番だ。バトンを受け取る右手を大きく後ろに差し出しながら走ってくる走者のスピードに合わせてリードをとる。胸の鼓動は大きく波打っている。右手にバトンを受け取ると素早く左手に持ち換えて、まっすぐまえを見据えて全速力で走り抜ける。カープを曲がる時に、前を走る赤い紅い襷を捉えた。「いける!」右側から左に走り込む。
白い襷をたなびかせて、ゴールのてーぷを切った。
やったー!白組優勝!
息を弾ませてグラウンドを周って自分席についた。
かずよちゃんが、「さやちゃん、早かったースゴイ!」と称えてくれる。
「ありがとう!」と返事をしたわたしの胸の鼓動は、まだ少し高鳴っていた。
踊るように
駅前のこじんまりした靴屋さんの子供の靴コーナー。
私の目がハートに輝いた。
「ママ。あれが欲しい。」
ずっと欲しかった苺色の赤いブーツ。
店員さんが棚から下ろしてくれた。
「わー。ぴったり!」
一年生の中でも体が小さな私の…。間抜けの小足ちゃんとパパにからかわれる私の足に、その真っ赤なブーツはよく馴染んだ。
シンデレラってこんな気分だったのかしら。
硝子の靴を履いた瞬間のシンデレラを思い浮かべた。
お店を出ると、チラチラと雪が舞い始めた。
駅前通りをピカピカの真っ赤なブーツを履いて、踊るように歩いて帰った。
あの冬の日。
貝殻
北海道に小旅行に行っていた叔父さんに、幼い頃貝のお土産を貰った。
「これは何という貝?」と聞くと、「イシダタミだよ。耳に当ててご覧。」と言われた。
貝の口の様な部分をそっと耳に被せた。遠くで波の音が聞こえた。
私は嬉しくなって、「ひろしおじちゃん、何で波の音がするの?」とはしゃいだ。
「あきよちゃんの為に、おじさんが海の音を貝殻に閉じ込めて帰ってきたのさ。」
「すごーい。ねぇどうやって?」何度も問いかける私に叔父さんは「それは秘密だよ。大人になれば分かるよ。」と笑った。
今年の春、優しかったひろしおじちゃんは、病気で帰らぬ人となってしまった。
貝殻が何故なみの音がするのか、大人になって謎は解けた。
私は貝殻を目にするたびに、いたずらっ子のような、あのひろしおじちゃんを思い出すのだろう。