あなたに届けたかった。あなたのことが大好きな私の気持ちを。
もはや届けることも、届けたかったはずの気持ちも燃え尽きてしまって叶わない。けれども、きっとこれでよかった。私の無益な好意に失望するあなたを見られなくて本当によかった。
あなたは今とても幸せで、新しいものと人に出会って輝かしい毎日をおくっていることだろう。そこに私が存在しないことは正解だ。それが嬉しい。それだけで過去に泣いた私は報われている。
私には推しがいる。
他人と繋がることが難しい私にとって、推しの存在はインターネットにおけるペルソナを形作る重要なパーツだ。毎日推しへの愛を語り続けて数年が経ち、インターネット上の私は推し狂人としてのアイデンティティを確立している。
最早、それ以外で自分を形成する手段がない。「推し活」を除いた私自身の要素で勝負する自信はとうに失われてしまった。コンテンツにはいずれ終わりが訪れる。過ぎ去ったその後にはきっとがらんどうな自分しか残されていないけれども、つらい毎日を耐え抜く術は他に見つからないのだから仕方がない。いずれ向き合わなくてはならない空っぽな心から目を背けて今日も愛を叫ぶ。
最近気がついたのは、私の優しさは無責任の表れでしかないということだ。
相手の意思に委ねる。責任まで全て預けられたように感じるが、相手に委ねるという私の意思と折半なので、実の所まったく責任から逃れてはいない。その上、あなたにお任せしますという触りのいい言葉で自己陶酔にまで陥るから本当にたちが悪い。
これに気づいてからは私自身の意志を表明するようにしている。いつまでも相手に責任を擦り付けて、お客様気分でいるからうまくいかないのだと分かってきた。こんな当たり前のこと、周りの人間がとうに到達したレベルに今更取り組んでいるように感じられる。未熟だ。
他人の気配は私を最も苛立たせる。
そこに自分と同等の思考を持った生命体がいるというのは、私にとって非常にストレスフルな状況だ。自意識の中に他人が入り込み、まるで監視されているような気分になるからだ。我儘かもしれないが、眠ったり食べたりという欲求を満たすときはできる限り孤独でいたい。
その点、真夜中はとても好都合だ。皆が眠りに落ちていて、私のことなど一片たりとも考えていないだろう。快も不快も抱くことはない。私は自意識の中に誰をも侵入させずに済む。少なくとも人類の視線から放り出された自分自身を、自分自身だけで受け止めることができるのだ。日中ですり減った私の輪郭を取り戻して明日を迎える。
不安でいっぱいだ。
いつだって私を安心させるのは優越感で、不安にさせるのは劣等感である。時間的な余裕に胡座をかいて安心に浸っていると、そのうち期限がやってきていつの間にか不安にすり代わっている。現状維持は衰退だと誰かが言っていたのはこのことかもしれない。
本当は安心も不安も存在しないとわかっていた。
先に進むも後に戻るも一直線上の出来事で、どこからどう見るかによってしか変わらないというのに。それでも私は常に安心が欲しい。誰かの上に立つことでしか気持ちを安らげることができない。
非常に寂しいことだ。この話にまだ答えはない。