ほおを涙がつたう。
何かを思いだせと、心が叫んでいる。
空は青く澄んでいて、雲ひとつない快晴なのに。太陽は私のことを暖かく包んで、春を感じさせる桜の花が満開に咲き誇っているのに。
私の心は、まだ冬のままだ。
私のLINEのトーク欄には、一番上に固定されたYuuという文字。トークを開くと、毎日楽しげに話していた。
浮かぶ、1月11日の文字。
私の心の中の時間は、どうやらこの日で凍りついて、動いていないようだ。
〈Rin : 最近寒くてさー、スカート履いて学校行くの辛いー〉
〈Yuu : 風邪に気をつけてね。スカートの下に長ズボン履けば寒くないんじゃないの?〉
〈Rin : 通学しにいくのにスカートの下にズボン履いてる人なんていないよ笑〉
〈Yuu : あれ?そうなの??〉
〈Rin : Yuuの住んでる地域はそんな感じなの?〉
けど、私はYuuという人を知らない。会ったことがないとか、顔を知らないとかじゃなくて、本当に話した記憶がないんだ。けど、トークの中の私は楽しげで、日常をこの人と共有していたんだなってことだけはわかった。
トークを遡ると、どうやら私たちは夢の中で出会ったみたいなんだ。今の私は何も思いだせないけど、夢の中でなぜか連絡先を交換できて、そして私たちは話し始めたらしい。
夢の世界は、もう一つの現実みたいにリアルな世界だったらしい。国があって、そこに住んでる人がいて、そして魔法があった。私たちはどうやら夢の世界ではパーティーを組んでいて、眠るたびに二人で一緒に冒険していたらしい。
〈Rin : 今日もまた夢の中で会おうね!〉
〈Yuu : あ、今日は武器を新調したいんだ。ちょっと時計台のある広場で待っておいてくれない?〉
〈Rin : えー、私も行く〉
〈Yuu : Rinを連れて行くとあそこの親父、いつもセクハラをしてるじゃないか〉
〈Rin : それはそうだけど… 待っとくのは少し寂しいし…〉
私はよく魔法を使って、剣を持ってるYuuのサポートをしていたらしい。私たちのパーティーはどうやらその国でもトップクラスに強かったらしく、国からの要請でなんとドラゴンを狩ったこともあるらしい。
〈Rin : 今夜はいよいよ魔王討伐の日かな…〉
〈Yuu : そうだね〉
〈Rin : Azusaは幹部を抑えるために犠牲になっちゃったし、Ryoは幹部と戦うために私たちと離れてから、消息がつかめないし…〉
〈Rin : Yuuはいなくならないでね?〉
〈Yuu : もちろん〉
彼のことが知りたくて、読んでいるとどこか懐かしくて、私はYuuとのトーク欄を何度も読み返したんだ。彼とのトークは、彼が送ったもちろんって言葉を最後に、何も送られていなかった。
君のことが知りたいよ。
君と話がしたいよ。
君の声が聞きたいよ。
君は私にとってどんな人だったの?
私の心が、何かを思いだせと叫んでいる。
全てが手遅れになる前に…
時が止まればいいと思っていた。
今が永遠に続けばいいと願っていた。
この一瞬を永遠に引き延ばして、その日常の中で暮らしていたいと希っていた。
時計の秒針が、重々しい静寂を際立たせるようにコチコチとなっている。月の光がほのかに暖炉の輪郭を映し出し、まるで死の世界に迷い込んだかのような妖しさを映しだす。
「あの日も、こんな夜だったかな」
夜の水面を揺らすように、静かに音が伝播する。
あの夜と少し違うのは、夜を暖かく包むランプの光がないことくらいだ。
永遠とも思えるほど長い、幾星霜を経て私は彼と出会った。彼と出会うまでは、ただ永遠とも呼べるほど長い寿命がただ終わるのを待つだけだった。初めて会ったのは、暗鬱とした雲が重苦しく広がる日のことだ。
「お姉さんはここで何をしているの?」
幼い茶色色の瞳が、私の顔を反射した。話し方を思い出すように、私は彼の目を見ながらゆっくりと話し出した。
「ここには近づかない方がいいって教わらなかった?」
「ううん」
「あなたはここに何をしにきたの?」
「探検しようと思って!」
彼は、んっ、と手に持っていたものを私の方へと突き出した。その手には子ども用の小さなナイフと、小さなポーチが握られていた。
小さなポーチは誕生日にもらったのだろうか、花の刺繍が施されている。よく手入れされた、シワのないシャツを着た彼は、満面の笑みを浮かべて私を見上げていた。
「私とはあまり話しかけない方がいいわ。あと、ここにはあまり近づかないようにね」
私は眩しいものを見たときのように彼の瞳から目を背けると、颯爽と館へと踵を返した。これが、彼との奇妙な日常の始まりだった。
それからというもの、彼は私の忠告を破って毎日この館に訪れることになった。あるときは虫を持ってきて私を驚かせ、あるときは麦わら帽子を持ってきてくれて彼と一緒に館の前にある森を探検した。彼の自作であろう宝の地図を頼りに、滝を越えて山を登った先に、本当にお宝があったのを見たときは思わず笑ってしまったものだ。彼はぐんぐんと大きくなり、木剣を持ってきて一緒に剣の練習もした。ついぞ私に彼は勝つことができなかったけど、負けることが嫌ではないかのように、いつも朗らかに笑っていた。
こんな世界が一生続けばいいと思っていた。
「ねぇ、アリス。何を読んでいるんだい?」
彼は、ランプの光で暖かく照らされた顔を月夜に向けながら、私に向かって問いかけた。
「これは、セントリア大陸の歴史っていう本だね」
「歴史の本なんて読んで面白いの?だって、その時代にも実際に生きていたのだろう?」
「私は情報屋でもなんでもないのよ。この館にずっと居たからなにも知らなかったわ」
そしてね、と彼女は続ける。
「こうやって人の営みを見るのは楽しいのよ。私がお母さんと一緒に暮らしたあの村を思い出すから」
「それは……」
彼は、苦虫を噛み潰したかのような顔をして私の方へと視線を向けた。
「それは、辛くないのかい?」
彼女は、その端正な顔を一瞬だけ歪めた。
「それでも、私はあの生活が好きだったから」
そっか、と彼は首肯した。そして、彼はアリスの元へと向かうと、突然首を垂れた。
「えっ!?えええっ!?」
「アリス、どうか聞いてほしい」
彼は、初めてあった日と同じようにアリスを見上げながら、しかしまっすぐとした目線を向けて語りだす。
「僕は明日、王都へと旅立つ」
彼は、懐から金の指輪を取り出した。
「僕は、君を守りたいと思った」
彼は、そっとアリスの手に触れると、その手を自分の方へと優しく引っ張った。月夜に照らされ、彼女の陶磁器のような白い、きめ細やかな腕が静かに照らされる。
「だから、どうかここで僕の帰りを待っていてくれないだろうか」
彼は、金の指輪を彼女の指輪へと通した。
アリスは、その様子をポカーンとした顔で眺めていた。
「えっとそれは、つまりどういうことかしら」
「アリスはやっぱり天然だな」
彼の少しこわばっていた顔がほぐれ、柔らかな笑みを浮かべた。
「僕と結婚してほしい」
あの日から、私はずっとこの家で彼を待っている。
彼を待っている時間は、これまでの何百年もの月日に比べても特別に長い時間だった。
永遠の時を生きる私に、初めての感情をくれた彼。
「時間があっという間に過ぎ去っちゃえばいいのに」
月明かりに手を伸ばし、自分の薬指できらりと光る金の指輪を静かに見つめる。
時計の秒針の音が、軽快にチクタクと音を奏でている。
血と泥と雨と風だけの戦場は、僕の心の中を全て洗い流してしまった。うめき声と嘆きの声が聞こえる静かな戦場の中で、幾千もの人が地平線まで横たわっていた。
ちっぽけな僕は粉々に打ち砕かれた。
そして、僕は生涯をかけて達成するべき命題を見つけた。
地位と財と名誉と、僕が持っている全てを捧げて僕は走った。寝る間を惜しんで僕は、あの惨劇を2度と繰り返さないことを誓った。
「どうして敵味方分け隔てなく、みな助けようとするのですか?」
しんどいのは僕だけでいい。
傷ついたり、苦しんだり、飢えたり、悲しんだり、そういう感情は僕だけが感じていればいい。
「構成員の自己犠牲による活動は、決して長続きしません」
僕は彼らを救わなければならないと誓った。僕自身が救われるために。
古いドアを、軽い音で叩く音が聞こえた。彼が返事をする前に、そのドアはギシギシと軋みながらゆっくりと開いた。
「ひどい有様ですね」
「……ああ、フローレンス。久しぶりだね」
この家の主人である彼は、簡素なベッドの上で一人横たわっていた。手は棒のように細く、顔はしわくちゃに痩せこけており、しかしその目だけは少年のように爛々と輝いていた。
「私はもう2度と会いたくありませんでした」
「そうだ、そこの紙とペンを取っておくれよ。僕はもう体を動かすことさえままらないんだ」
「あなたは間違っています。自分を救えない人が、他人を救うことなんて出来ないのです」
「今日は少し調子が良くてね。少し執筆作業をしようと思ったら滑り落ちちゃったんだ」
「黙りなさい」
彼女は、そっと目を伏せた。埃だらけの床の先には、インクとペンと膨大な量の紙の束が散らばっていた。
「あなたは私の忠告を聞かずに走り続けました」
「そうだね」
「その結果、あなたは全てを失いました。富と地位と名声を失い、あなたが作った機関からも追い出された」
「そうだね」
「どうしてあなたは、それでもまだ笑っていられるんですか」
彼女は看護師だ。
人を治し、癒す仕事についている彼女が唯一治せなかった彼は訥々と語り始めた。
「フローレンス、僕はね。地獄を見たんだ。あの日、あの世界には理性がなかった。もう戦えない兵士が打ち捨てられ、助かるはずの命の灯火が消えていったんだ」
脳裏に浮かぶのは、いつもあの景色だった。あの日、僕の人生は全て変わってしまった。
「僕は人々を愛で繋げたかった」
僕は近くの村に赴き、負傷者の救護活動を呼びかけた。敵味方構わず水を与え、食糧を分け与え、包帯や薬を与え、祈りを捧げた。
「戦場という、倫理の及ばない場所に一筋の愛を紡ぎたかった」
負傷した兵士は、人間だった。傷つき、嘆き、助けを乞う、一人の人間だった。
「だからこそ僕も戦ったんだ」
彼は窓の外を眺めた。
11月の空は曇り空だった。分厚い雲が太陽を隠し、枯れ木からは最後の一葉がまさに落ちようとしていた。
世界が静寂で支配されてるのではないかと思うほど、静かな時間が続いた。
「あなたは間違っています」
彼女は口惜しそうに呟いた。
「しかし、あなたの残したものには意味がありました」
そう、消え入るような声を絞り出すと、彼女は手紙を差し出した。
「今日はこれを届けに来ました」
そういって、彼女はなにも言わずに軋むドアを押して出ていった。彼女の残した手紙を裏返すと、そこにはこう書かれていた。
───第一回、ノーベル平和賞授賞式のご案内
彼の名前は、アンリ・デュナン。第一回、ノーベル平和賞の受賞者にして、赤十字社の創設者である。
過ぎ去った日々とは、どんな日々だろうか。私にとっては、高校時代のことだ。あの頃は、夢に向かって一生懸命勉強したり、友達と楽しく遊んだり、恋をしたり、悩んだりした。あの頃は、自分が何者であるか、何をしたいか、どこへ行きたいかを探していた。あの頃は、まだ世界が広くて新しくて魅力的に見えた。
今となっては、あの日々は遠くなりすぎてしまった。社会人になってからは、仕事や家庭やお金や健康などの現実的な問題に追われるようになった。夢や希望や情熱はどこへ行ってしまったのだろうか。友達とも疎遠になり、恋もしなくなった。悩むことも少なくなったが、それは自分が諦めてしまったからではないか。
私は時々、あの日々に戻りたいと思う。もう一度、純真で情熱的で好奇心旺盛な自分に出会いたいと思う。もう一度、夢を見て追いかけてみたいと思う。もう一度、友達と笑って泣いて話してみたいと思う。もう一度、恋をして胸が高鳴る感覚を味わってみたいと思う。
でも私はわかっている。あの日々は二度と戻らないことを。あの日々は私の人生の一部であり貴重な経験であり思い出であるが、それ以上でも以下でもないことを。私は今この瞬間を生きているし、これからも生きていくことを。
だから私は過ぎ去った日々に感謝するし大切にするが、それに囚われることはしない。私は今この瞬間に目を向けるし楽しむが、それに満足することはしない。私はこれから訪れる未来に期待するし挑戦するが、それに怯えることはしない。
過ぎ去った日々も今この瞬間もこれから訪れる未来もすべて私の人生であり私自身であるからだ。
お金はあればあるほど
欲しくなるもの
満たされない心に
穴を開けるもの
人は誰でも孤独で
愛を求めるもの
お金では買えない
温かさがあるもの
お金よりも人間関係
大切にしたいと思う
笑顔や涙や言葉で
繋がっていたいと思う
お金はなくても生きていける
人間関係はなくては生きていけない
お金は手段であって目的ではない
人間関係は目的であって手段ではない
だから私はお金よりも人間関係を選ぶ
幸せになるために必要なものを選ぶ