血と泥と雨と風だけの戦場は、僕の心の中を全て洗い流してしまった。うめき声と嘆きの声が聞こえる静かな戦場の中で、幾千もの人が地平線まで横たわっていた。
ちっぽけな僕は粉々に打ち砕かれた。
そして、僕は生涯をかけて達成するべき命題を見つけた。
地位と財と名誉と、僕が持っている全てを捧げて僕は走った。寝る間を惜しんで僕は、あの惨劇を2度と繰り返さないことを誓った。
「どうして敵味方分け隔てなく、みな助けようとするのですか?」
しんどいのは僕だけでいい。
傷ついたり、苦しんだり、飢えたり、悲しんだり、そういう感情は僕だけが感じていればいい。
「構成員の自己犠牲による活動は、決して長続きしません」
僕は彼らを救わなければならないと誓った。僕自身が救われるために。
古いドアを、軽い音で叩く音が聞こえた。彼が返事をする前に、そのドアはギシギシと軋みながらゆっくりと開いた。
「ひどい有様ですね」
「……ああ、フローレンス。久しぶりだね」
この家の主人である彼は、簡素なベッドの上で一人横たわっていた。手は棒のように細く、顔はしわくちゃに痩せこけており、しかしその目だけは少年のように爛々と輝いていた。
「私はもう2度と会いたくありませんでした」
「そうだ、そこの紙とペンを取っておくれよ。僕はもう体を動かすことさえままらないんだ」
「あなたは間違っています。自分を救えない人が、他人を救うことなんて出来ないのです」
「今日は少し調子が良くてね。少し執筆作業をしようと思ったら滑り落ちちゃったんだ」
「黙りなさい」
彼女は、そっと目を伏せた。埃だらけの床の先には、インクとペンと膨大な量の紙の束が散らばっていた。
「あなたは私の忠告を聞かずに走り続けました」
「そうだね」
「その結果、あなたは全てを失いました。富と地位と名声を失い、あなたが作った機関からも追い出された」
「そうだね」
「どうしてあなたは、それでもまだ笑っていられるんですか」
彼女は看護師だ。
人を治し、癒す仕事についている彼女が唯一治せなかった彼は訥々と語り始めた。
「フローレンス、僕はね。地獄を見たんだ。あの日、あの世界には理性がなかった。もう戦えない兵士が打ち捨てられ、助かるはずの命の灯火が消えていったんだ」
脳裏に浮かぶのは、いつもあの景色だった。あの日、僕の人生は全て変わってしまった。
「僕は人々を愛で繋げたかった」
僕は近くの村に赴き、負傷者の救護活動を呼びかけた。敵味方構わず水を与え、食糧を分け与え、包帯や薬を与え、祈りを捧げた。
「戦場という、倫理の及ばない場所に一筋の愛を紡ぎたかった」
負傷した兵士は、人間だった。傷つき、嘆き、助けを乞う、一人の人間だった。
「だからこそ僕も戦ったんだ」
彼は窓の外を眺めた。
11月の空は曇り空だった。分厚い雲が太陽を隠し、枯れ木からは最後の一葉がまさに落ちようとしていた。
世界が静寂で支配されてるのではないかと思うほど、静かな時間が続いた。
「あなたは間違っています」
彼女は口惜しそうに呟いた。
「しかし、あなたの残したものには意味がありました」
そう、消え入るような声を絞り出すと、彼女は手紙を差し出した。
「今日はこれを届けに来ました」
そういって、彼女はなにも言わずに軋むドアを押して出ていった。彼女の残した手紙を裏返すと、そこにはこう書かれていた。
───第一回、ノーベル平和賞授賞式のご案内
彼の名前は、アンリ・デュナン。第一回、ノーベル平和賞の受賞者にして、赤十字社の創設者である。
3/10/2023, 6:10:49 PM