時が止まればいいと思っていた。
今が永遠に続けばいいと願っていた。
この一瞬を永遠に引き延ばして、その日常の中で暮らしていたいと希っていた。
時計の秒針が、重々しい静寂を際立たせるようにコチコチとなっている。月の光がほのかに暖炉の輪郭を映し出し、まるで死の世界に迷い込んだかのような妖しさを映しだす。
「あの日も、こんな夜だったかな」
夜の水面を揺らすように、静かに音が伝播する。
あの夜と少し違うのは、夜を暖かく包むランプの光がないことくらいだ。
永遠とも思えるほど長い、幾星霜を経て私は彼と出会った。彼と出会うまでは、ただ永遠とも呼べるほど長い寿命がただ終わるのを待つだけだった。初めて会ったのは、暗鬱とした雲が重苦しく広がる日のことだ。
「お姉さんはここで何をしているの?」
幼い茶色色の瞳が、私の顔を反射した。話し方を思い出すように、私は彼の目を見ながらゆっくりと話し出した。
「ここには近づかない方がいいって教わらなかった?」
「ううん」
「あなたはここに何をしにきたの?」
「探検しようと思って!」
彼は、んっ、と手に持っていたものを私の方へと突き出した。その手には子ども用の小さなナイフと、小さなポーチが握られていた。
小さなポーチは誕生日にもらったのだろうか、花の刺繍が施されている。よく手入れされた、シワのないシャツを着た彼は、満面の笑みを浮かべて私を見上げていた。
「私とはあまり話しかけない方がいいわ。あと、ここにはあまり近づかないようにね」
私は眩しいものを見たときのように彼の瞳から目を背けると、颯爽と館へと踵を返した。これが、彼との奇妙な日常の始まりだった。
それからというもの、彼は私の忠告を破って毎日この館に訪れることになった。あるときは虫を持ってきて私を驚かせ、あるときは麦わら帽子を持ってきてくれて彼と一緒に館の前にある森を探検した。彼の自作であろう宝の地図を頼りに、滝を越えて山を登った先に、本当にお宝があったのを見たときは思わず笑ってしまったものだ。彼はぐんぐんと大きくなり、木剣を持ってきて一緒に剣の練習もした。ついぞ私に彼は勝つことができなかったけど、負けることが嫌ではないかのように、いつも朗らかに笑っていた。
こんな世界が一生続けばいいと思っていた。
「ねぇ、アリス。何を読んでいるんだい?」
彼は、ランプの光で暖かく照らされた顔を月夜に向けながら、私に向かって問いかけた。
「これは、セントリア大陸の歴史っていう本だね」
「歴史の本なんて読んで面白いの?だって、その時代にも実際に生きていたのだろう?」
「私は情報屋でもなんでもないのよ。この館にずっと居たからなにも知らなかったわ」
そしてね、と彼女は続ける。
「こうやって人の営みを見るのは楽しいのよ。私がお母さんと一緒に暮らしたあの村を思い出すから」
「それは……」
彼は、苦虫を噛み潰したかのような顔をして私の方へと視線を向けた。
「それは、辛くないのかい?」
彼女は、その端正な顔を一瞬だけ歪めた。
「それでも、私はあの生活が好きだったから」
そっか、と彼は首肯した。そして、彼はアリスの元へと向かうと、突然首を垂れた。
「えっ!?えええっ!?」
「アリス、どうか聞いてほしい」
彼は、初めてあった日と同じようにアリスを見上げながら、しかしまっすぐとした目線を向けて語りだす。
「僕は明日、王都へと旅立つ」
彼は、懐から金の指輪を取り出した。
「僕は、君を守りたいと思った」
彼は、そっとアリスの手に触れると、その手を自分の方へと優しく引っ張った。月夜に照らされ、彼女の陶磁器のような白い、きめ細やかな腕が静かに照らされる。
「だから、どうかここで僕の帰りを待っていてくれないだろうか」
彼は、金の指輪を彼女の指輪へと通した。
アリスは、その様子をポカーンとした顔で眺めていた。
「えっとそれは、つまりどういうことかしら」
「アリスはやっぱり天然だな」
彼の少しこわばっていた顔がほぐれ、柔らかな笑みを浮かべた。
「僕と結婚してほしい」
あの日から、私はずっとこの家で彼を待っている。
彼を待っている時間は、これまでの何百年もの月日に比べても特別に長い時間だった。
永遠の時を生きる私に、初めての感情をくれた彼。
「時間があっという間に過ぎ去っちゃえばいいのに」
月明かりに手を伸ばし、自分の薬指できらりと光る金の指輪を静かに見つめる。
時計の秒針の音が、軽快にチクタクと音を奏でている。
3/12/2023, 4:02:51 AM