「ごめんね、お休みの日に付き合ってもらって」
少し緊張した面持ちで車のハンドルを握るのは、若葉マーク貼りたてのオレの彼女。
「いや全然。真っ先に助手席に乗せてもらえるなんてすげぇ嬉しいって」
仮免中の練習も乗ってはいたのだが、それでも「一人だと心細くて」と誘ってもらえるのは彼氏冥利に尽きるというものだ。
無事買い物を終え、あとは彼女のアパートに帰るのみとなった今「じゃあお礼にお茶でも」と言われ部屋に上がりあわよくば…と考えるのは男として自明の理。
つまり若干どころじゃなく浮かれていたのだ。その時横道から前に入った軽自動車を見て「あ、前の車、枯葉マークついてるから気をつけてね」とよく考えもせず発してしまう程度には。
「え?」
「いや、あの年配の人が車に貼る」
カチカチカチ
彼女は不意に左折のウインカーを出し、車を脇に停めハザードを焚いた。初心者とは思えないような流れるような所作だった。
「え、どうしたの?」
正面を向いたままの彼女に恐る恐る声を掛ける。
「枯葉マークって何?」
その声を聞いた瞬間、浮かれ上がっていた心が地にめり込んだ。その声も、こちらに向いた目も、いつもの穏やかな彼女からは想像もできないような冷たさだった。
「え、あの、高齢の方が車に貼る」
言いながら思わず背筋が伸びていく。
「そうじゃない、あれはもみじマーク、または四つ葉マークっていうの。70歳以上の人が加齢に伴って生ずる身体の機能の低下が自動車の運転に影響を及ぼすおそれがあるとき貼るものなの。君、さっきなんて言った? 枯葉マーク? 君は高齢の方のことをもう人生の終盤あとは落ちるだけの枯葉ですね。まじうけるカッコ笑いとか思ってるわけ?」
「いえ、そんなことは」
決して、という前に彼女が言い募る。
「思ってないならそんな無神経な言葉出てこないよね? わたしが子供の頃からおじいちゃんおばあちゃんのこと大好きで、君も随分お世話になったと思いますけど、そんな人たちのことも君は心の中では枯葉呼ばわりして」
「ません! すみませんでした! 一緒にいるのが楽しくて浮かれすぎちゃってよく考えもせず見て思ったまま枯葉っぽいマークだなって思ってたのをそのまま言っちゃいました。もう二度と言いません!」
誠心誠意の謝罪はどうにか彼女に伝わった。
だが、部屋に上がり込む雰囲気でなかったことはいわすもがなだろう。
みんな、正式名称はちゃんと覚えよう!
そして高齢者への敬いの気持ちは大切にね!
その少女は夕暮れの中、ガードレールのそばにしゃがみ込んでいた。ピンク色のランドセルは小さな背中にのしかかっているように見える。
オレは車が来ないのを確認し、道路を小走りで渡る。
少女のそばに寄ると微かに言葉が漏れ聞こえる。
正面に屈み込むが、少女は身動ぎもせず何かを話し続けている。
「かえらないといけないのにおかあさんあさもおこってたしおそくなったからきっとおこってるくらくてこわいのにはやくないからおこってるからかえれないきょうはやくかえってきなさいってあさおかあさんにいわれたのに」
日はどんどん暮れていき、あたりは真っ暗になっている。
「お家に帰りたいの?」
そっと声をかけると、話し声がぴたりとやんだ。
「たくさん考えて偉かったね。もう大丈夫だよ。だからお母さんが怒っている今日に、早くお家に帰れなかった今日にさよならしようか。」
「今日にさよなら…?」
伏せていた顔をようやく上げ、こちらを見る少女。その目はどれだけ泣き続けたのか腫れて真っ赤になっていた。
「そうだよ。悲しい今日はもうおしまい。目を閉じて、今のお母さんのことを考えてごらん。お母さんは今どうしてる? 何を考えているかな?」
「お母さん、知らないへやにいる…ベッドにいるのは…わたし…?」
「お母さんは怒ってる?」
「おこってない、けど…すごくかなしくなってる」
少女はパッと目を見開き、立ち上がった。
真っ赤だったはずの目はきらきらとした輝きを取り戻している。
「お母さん、わたしをよんでる! すごく、すごくいっぱいよんでる! お母さんのところにいかなくちゃ!」
「どうしたら早くお母さんのところに行けるかな?」
「とんでく! パタパターって、あの白いとりみたいに!」
少女はそばのガードレールに留まっていた白い鳩を指差した。
「じゃあ、お兄さんが手伝ってあげるから手を出して、目を閉じてくれる? そうしたらお母さんのことだけを考えるんだよ。」
「うん!」
少女は両の手を迷いなく突き出す。
オレはその手を握り、目を閉じて真っ白な鳩を思い描く。青い空に向かって翼を広げ、どこまでも飛んでいく姿を。
両手から感覚が消え、目を開けるとそこに少女の姿はなかった。
オレは真っ昼間にガードレールのそばに一人でしゃがみ込む怪しい人になっていた。
いや、傍から見たらさっきからずっとそうなんだが。
立ち上がり、何事もなく歩き出す。
乗ってきた車はだいぶ離れた場所にあるが、気分がいいから足取りは軽い。
ガードレールの白い鳩はいつの間にかいなくなっていた。
(毎度毎度見張りご苦労なことで。)
関わってはいけないと言われても、苦しい今日に囚われたままの誰かがいるなら、それをどうにかできるなら、何とかしてあげたい。
(いつか身を滅ぼすことになる、か)
でもとりあえず今はただ、きらきらと輝く瞳を持つ一人の少女の幸せを願おう。
20年近く使っているマグカップがある。
恋人と初めての遠出、その旅行の記念にと買った黒のマグカップ。
「黒にすんの? じゃあオレは白〜」とカップを手に取って笑った彼。数えるほどしか食器がない中、黒と白並んで置かれたマグカップ。
寒い日にわざわざ鍋で温めたホットミルク、暑い日に氷を山程入れて作ったアイスコーヒー、マグカップ2杯分で薄くなったティーバッグの紅茶。彼は飲まなかったハーブティ、なかなか減らなくなった作り置きの冷たい麦茶、冷えた体を温めてくれた友達特製の甘いレモネード。
使う人のいなくなった白いマグカップは何度目かの引っ越しの時には食器用ダンボールから消えていた。
喉を潤し、手を温め、時には安らぎをくれる私の黒のマグカップ。手に、唇に馴染みすぎてもう今更手放せない。
これってお気に入りっていうのかな?
「じゃあ次ね。《more than anyone》誰よりもなんちゃらを使って文を作りなさい。」
「なんちゃらってなんだよ」
「ほにゃらら派だっけ」
「そうじゃなくて誰よりも、何?」
「何でもいいんじゃない? 面白いとか足が速いとか」
「可愛いとか?」
「…優しいとか」
「一緒にいると嬉しいとか」
「すごくかっこいいとか!」
「ん? 誰よりもすごくかっこいいってなんか変じゃない?」
「も~~何!? 何なの?」
「Ilove you more than anyoneかな」
「ミートゥモアザンエニワン!」
「なにそれ」
カシュッ。
風呂上がりのビールは頑張った自分へのご褒美だ。
愛用の座椅子にどかっと座り込み、ビールをグラスに注ぐ。グラスに満たされる黄金色の液体を見ながらも、目の端に入る一通の封書。
白い封筒の表には私の名前だけ、裏には《十年後の私より》と印字されている。
郵便受けに入っていた消印も住所もない異質な封筒。
(10年後っていうと35歳か…)
封筒をつまみぺらぺらと振りながら、泡の落ち着いたグラスに口をつける。冷えたビールが火照った体に沁みる。そのまま一息でグラスのビールを飲み干し、タンッと机にグラスを置いた勢いのまま封書の上部をビリビリと破り開ける。
三つ折りになった数枚の紙を取り出す。
恋人のこと、仕事のこと、離れて暮らす両親のこと、もしかしたら地球規模の天変地異とか…様々なことが頭をよぎり、紙を開く手が微かに震える。
目をつぶり、大きく息を吸って、吐く。
開いた手紙は印字の横書きだった。
《10年前の私へ》
そのまま読み進めていく。
《私は今、とても幸せに暮らしています。それは不幸のどん底にあった私を救って下さったとある方との出会いがあったからです。この手紙もその方のお力で届けることができています。この手紙を送ったのはもっと早くこの方と出会えていれば不幸な思いをすることもなかったはずと深く後悔したからです。その方に》
私は読むのをやめ、重なった他の用紙に目を移す。
ツルツルで厚みのある光沢紙には温かい笑顔を浮かべた栄養状態の良さそうな壮年男性、水晶のブレスレット、金色の置物…。
「詐欺かいっ!!」
次の日、警察に届け出た。