鯖缶

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その少女は夕暮れの中、ガードレールのそばにしゃがみ込んでいた。ピンク色のランドセルは小さな背中にのしかかっているように見える。
オレは車が来ないのを確認し、道路を小走りで渡る。
少女のそばに寄ると微かに言葉が漏れ聞こえる。
正面に屈み込むが、少女は身動ぎもせず何かを話し続けている。
「かえらないといけないのにおかあさんあさもおこってたしおそくなったからきっとおこってるくらくてこわいのにはやくないからおこってるからかえれないきょうはやくかえってきなさいってあさおかあさんにいわれたのに」
日はどんどん暮れていき、あたりは真っ暗になっている。
「お家に帰りたいの?」
そっと声をかけると、話し声がぴたりとやんだ。
「たくさん考えて偉かったね。もう大丈夫だよ。だからお母さんが怒っている今日に、早くお家に帰れなかった今日にさよならしようか。」
「今日にさよなら…?」
伏せていた顔をようやく上げ、こちらを見る少女。その目はどれだけ泣き続けたのか腫れて真っ赤になっていた。
「そうだよ。悲しい今日はもうおしまい。目を閉じて、今のお母さんのことを考えてごらん。お母さんは今どうしてる? 何を考えているかな?」
「お母さん、知らないへやにいる…ベッドにいるのは…わたし…?」
「お母さんは怒ってる?」
「おこってない、けど…すごくかなしくなってる」
少女はパッと目を見開き、立ち上がった。
真っ赤だったはずの目はきらきらとした輝きを取り戻している。
「お母さん、わたしをよんでる! すごく、すごくいっぱいよんでる! お母さんのところにいかなくちゃ!」
「どうしたら早くお母さんのところに行けるかな?」
「とんでく! パタパターって、あの白いとりみたいに!」
少女はそばのガードレールに留まっていた白い鳩を指差した。
「じゃあ、お兄さんが手伝ってあげるから手を出して、目を閉じてくれる? そうしたらお母さんのことだけを考えるんだよ。」
「うん!」
少女は両の手を迷いなく突き出す。
オレはその手を握り、目を閉じて真っ白な鳩を思い描く。青い空に向かって翼を広げ、どこまでも飛んでいく姿を。
両手から感覚が消え、目を開けるとそこに少女の姿はなかった。
オレは真っ昼間にガードレールのそばに一人でしゃがみ込む怪しい人になっていた。
いや、傍から見たらさっきからずっとそうなんだが。
立ち上がり、何事もなく歩き出す。
乗ってきた車はだいぶ離れた場所にあるが、気分がいいから足取りは軽い。
ガードレールの白い鳩はいつの間にかいなくなっていた。
(毎度毎度見張りご苦労なことで。)
関わってはいけないと言われても、苦しい今日に囚われたままの誰かがいるなら、それをどうにかできるなら、何とかしてあげたい。
(いつか身を滅ぼすことになる、か)
でもとりあえず今はただ、きらきらと輝く瞳を持つ一人の少女の幸せを願おう。



2/19/2023, 3:03:51 AM