あぁ。いつもこうだ。
私はタイミングが悪い。
目の前には仲睦まじい様子で話す男女一組。
片方は私が1年半ほど片思いしていた男の子だ。
そんな男の子に、女の子、そう、私じゃない女の子が今週末に一緒に映画を見に行こうと誘う場面に遭遇した。男の子は頷いた。
それを死角になる壁にもたれかかって眺めている私はと言うと、座り込みたくなる気持ちを抑えるのに精一杯だった。
彼に気持ちを伝えようと思って手紙を綴った。
少しだけ寝る時間が遅くなった。
朝一で渡してしまおうと思ったけどなかなか踏み出せず放課後になった。
そうしたらこれだ。タイミングが悪いんじゃなくて思い切りが足りないんだろうか。何にしろ自己嫌悪の気持ちがチクチクと胸を刺す。
浮かれていた気持ちはすっかり真っ逆様に落ち込んで地面にめり込む勢いだった。多分来年の春あたりに私の気持ちが落ちた場所に地味な葉っぱが芽吹くだろう。誰にも気づかれない雑草だ。私と一緒……。
「こんなことろで何してんの」
上から声が降ってきた。
その声を認識した瞬間、頬と耳と背中あたりにかっと熱が上がるのを感じる。
過剰反応もしたくなる。片思いしている相手の声だ。
「な、何も……」
絞り出すようにした返事の声は、別の意味で顔に熱が上がりそうなほど情けないものだった。
「相沢さんと話してたの聞いた?」
「えっ、あ。いや……」
「なにキョドってんだよ。映画、日野さんも一緒に行かない?」
日野さん。誘われて羨ましい……などと思ったがよく考えたら日野は私の苗字だ。
「なんで!?」
「なんでって……嫌かよ。森と三村も来るらしいんだけど、確かあいつらとよく話してるだろ」
次々挙げられるクラスメートの名前。私は察した。これは、クラスメートとの健全な映画会!
「全然!嫌じゃないむしろ!めっ……ちゃ!うれしい……!」
私じゃないみたいな、ひどくはしゃいだ声。私の片思い相手も、少し困惑したような表情を浮かべていた。そんな顔も素敵で困る。あぁ、好きすぎる。
「映画そんなに好きか? ってか、何観にいくかも言ってないけど。さっきの会話で聞こえてた?」
「わかんないけどもうなんでも良い。遊べて嬉しい。……みんなと」
あなたと映画に行けて嬉しい、とは、はしゃいでテンションのおかしい私でも言えなかった。
「へえ。じゃあ当日まで黙っておくか。楽しみにしてて。他の奴らにも日野さんには秘密って言っとく」
んじゃ。と。彼は颯爽と去っていく。
私はしばらく呆然としていた。はっと気づく。
手紙、渡しそびれた。せっかく話できたのに。
手紙を見下ろすと、封筒に書かれている逆さまになった想い人の名前が少し歪んでいる。
先程の会話で興奮して握りしめてしまったのだろう。
「書き直そう……」
私は一つ息を吐き、軽い足取りで歩き出した。
鼻歌は抑えておこう。
『逆さま』
「はぁーっ」
吐き出す息が白い。
今日は寒い日だ。いまいち寒さを自覚してなかった体に、ゆるりと冷えた空気がしみてくる。
それまでなんともなかったのに見つけた途端チクチク痛くなる小さい切り傷みたいだ。
「冬限定のイベントエフェクトって考えたらなんか大事にしたくならない? この白い息」
隣にいた幼馴染が言う。ゲームオタクめ。
私は実際に思ったことを口にしたらしい。幼馴染が苦笑した。
「理解してその返答ができるってのも同類ってことだと思うけど」
「まあ。そうだけどさ」
適当に返事をして、意味もなくもう一度息を吐き出す。
ふわりと消えていく息を見つめながら、心の中で小さく祈った。
このゲームオタクな幼馴染と、できればずっとずっとこうしてくだらない会話がしていられますように。
その小さな祈りもすぐに、ふわりと心の中で滲んで曖昧になっていく。
私はきっと、あるかもしれない未来の、幼馴染との別れが想像できていないのだろう。そんな事実に、この時間が当たり前の日常であることに安堵した。
私たちはいつか大人になるだろうけど。
今はまだくだらないことで笑い合っていよう。
隣の幼馴染は私がこんなにも心の中でセンチメンタルになっていることには気づかないだろう。
まだ子供だから。
『冬のはじまり』
長かった髪を切った。
今はあまり言われなくなったらしいが、女というのは失恋したら髪を切るものだと聞いたから。
大好きだった、いや、今も大好きなあの人がいいねと言ってくれた私の髪。
今は無残にも床に散って嫌悪感を覚える様な様相だ。
眺めていると「すっきりしましたね~。ショートも似合ってますよ」なんて、床の様相を私の注文で生み出してくれた美容師が笑って言う。
嬉しくて普通に照れた。今は彼女の言葉がお世辞かどうかは考えないでおこう。
財布は少し軽くなり、頭部は随分と軽くなったが、欲張りな私は気持ちも軽くしたくてなんとなく近くの公園に来た。
恋なんて知らなかった小学生の頃みたいに、遊具ではしゃいでやろうかと、いつもなら絶対思わないことを思い付き、その思い付きのままここに来た。
昼過ぎくらいの中途半端な時間だったが人がちらほらいる。
頭の中で、ヤケになり暴れてやろうかと意味もなく思っていた私に、ゆらりと現れたもう一人の私が囁く。
「その歳で子供に交じって遊具で遊ぶつもり?」
確かにそうだ。ここで目立つ動きをしている人間と言えば小さい子供がほとんどだ。
私は一瞬、それになりたかったわけだが、どれだけ心に童心を宿したって体は縮んでくれない。
躊躇し、その場に立ち尽くしていたのはどれくらいだったか。多分数分程度だと思う。
「姉ちゃん。お腹でもいたいのかよ」
やや下の方から声がした。この状況から考えるに、私に声をかけたのだろう。そちらへ視線を向けると。可愛い顔。男の子だ。
私は子供に詳しくないから、どれくらいかははっきりとわからないが、多分小学生だ。低学年だろうか。
私をまっすぐ見つめている。邪魔だったかもしれない、と罪悪感と焦燥感がわいてくる。
「しゃべれねーの?」
男の子は少し首をかしげて私へ一歩近づく。
「いや……」
焦って言えたことはそれだけだった。数秒程度の沈黙。
「ふぅん。ならよかった。姉ちゃん、かみの毛みじけーのにかわいーな。そんな下みてるともったいねーよ」
少し下からの、太陽のような眩しい笑顔。まるで夏の日差しに焼かれたように、顔が熱くなる。
「へへ。てれてる。おれ、姉ちゃん……あ、本当の、家にいる家族の姉ちゃんなんだけどな。姉ちゃんたちもこうやってかわいいって言うとうれしそうにするんだ」
「へえ……。なんか……すごいね。かっこいい」
やっと言葉が出せた。少し掠れていたが、素直な感想だった。
「かっこいい!? そんなんはじめて言われた! おれ、かっこいいか?」
「うん。女の子に素直に誉め言葉言えるの、すごいと思う。かっこいい」
「へへ。そっか。そっかあ」
私たちの間に言葉が途切れた。お互い照れて空気がふわふわして、くすぐったい。悪い気分じゃなかった。
「……ありがとう」
「ん? 別に。大したことじゃねーし」
「実はね。ここが痛くて。辛くて、気が紛れるかなって、髪の毛ずっと長かったのに切っちゃったの」
両手で胸の真ん中を抑える。心の所在がここかは分からないが、悲しくてどうしようもなくて、ぎゅっと縮んで苦しかった場所だ。
また少しの沈黙。きざなことが突然言えるからって、相手は小さな男の子だ。いきなりこんなこと言って、困らせてしまっただろうか。
「今はつらくねーの?」
「マシになった。君が褒めてくれたし」
「そうか。よかった!じゃあ長いのも見たいな。また伸ばしたら見せてよ」
「え」
「おれ、いつもここで遊んでるから」
戸惑って返事に困っていると、遠くから男の子を呼ぶ声がしたらしく、彼は私に手を振って行ってしまった。名前、聞き取れなかった。私も名前、教えてない。髪の毛、伸ばすとも言ってないし。
でも、悪い気分ではなかった。彼の言う通りまた伸ばしてみようかな。
その頃にはまた新しく胸が高鳴るような恋が見つかるかもしれない。
そうしたら、またこの公園に来よう。
風が一筋吹き抜ける。
心臓が、少し早く鼓動を刻んでいた。
あぁ、どうか。まだもうちょっと、私がちゃんと歩き出せるように。この高鳴りを、
『終わらせないで』