#瞳を閉じて
瞳を閉じればさまざまな音が聞こえ始める。
視覚からの情報というのは偉大で、耳からの情報など意識の中に留まることを許されない。
空気の音がする。ジーと、耳の中でこだますのを感じる。
私の聴覚が仕事をする限り、いくら優れた防音室でも、この世界に本当の無音はないのだった。
私は、無音を聴く。
#たった1つの希望
1人の小説家がいた。家族も友人もなく、人間嫌いだった。細々と連絡を取る相手はいるものの、家から出ることもなかった。
小説家は、自分の文章が好きではなかった。小説というものには他人の評価が付き纏う。表現がどうだとか、伏線がどうだとか、世界観がどうだとか、登場人物がどうだとか。幸いにも小説家の作品は世間では高評価を得ているが、自己満足で文章を書いている小説家にとって、高評価でも低評価でも、他人から評価されるというのはなんとも気に入らなかった。人間というのは感情に左右されやすいもので、評価されることを酷く嫌っている小説家は、いつしか自己満足で書いていたはずの自分の文章すら気に食わなくなっていた。
信じられるものが何もない小説家にとって、それは致命的なことだった。今まで、文章だけが取り柄であり人生だったのだ。自分で書いた文章を自分で読むのが好きだった。しかし今では世間の声が頭を過り、吐き気がする。小説家は人生を失った。
ところで、小説家が書く文章はラストが魅力的だと好評だった。誰もが想像できないものや、読み手の想像に任せ様々な意味に捉えることのできるものなど、ラストシーンで読み手を魅了していた。
小説家が新しく執筆している作品は、もうすぐラストシーンに差し掛かるところだ。さて、「始まりがあれば終わりがある」と良く言われる。それなら意図的に終わりを作らなければどうなる?永久に始まったままになるのではないか。終わりという幕が下がらない物語も、たまには良いのではないか。
小説家は長年連れ添ったペンを大切そうに置く。
いつもより幾分か高い景色を見ていた。
裸足の足は静かに揺れていた。
#遠くの街へ
ジリリリリ...ジリリリリ...
聞き慣れた目覚まし時計の音で目を覚ます。頭痛が酷い。今日は雨が降っているらしい。雨は嫌いだ。不調の原因となる。天気に弱い自分の身体にもうんざりするが、雨の日に不調を抱えながら家で寝て過ごすのにはもう飽き飽きだ。
朝起きたらまずカーテンを開ける。曇りや雨の日差しがない日は、陽の光を浴びることができないから意味がない気もするが、毎日の習慣と化している。
無数に降りる水の柱が窓の縁で跳ねる。雨は嫌いなはずだが、この光景はなんだか見ていられる。
今日は、傘を差して出掛けてみようか。電車で遠くの街へ。電車の窓の縁で跳ねる雨と、移り変わる景色を楽しもうじゃないか。
#君は今
おはよう。
寝ぼけて放った言葉は誰にも拾われない。1人で寝るには大きすぎるダブルベッド。隣半分には皺のないシーツが広がる。かすむ目を擦りながらトースターに入れた食パンは1枚分。
あぁ、そうか君はもうここにはいないのか。
3年付き合った彼女。同棲もしていた。2ヶ月前に別れてからというもの、失恋の傷は時間が解決するとは名ばかりで、海の底に沈んだかのような生活をしている。
別れた理由は些細な喧嘩。喧嘩の内容など思い出したくもないが、俺が悪かった。自分の非を謝ることができずに別れ、彼女は出ていってしまった。
君は今、何をしているか。他の男と幸せな時を過ごしているのだろうか。ここに居なくとも、別の場所で上手くいっているのであればいいと思っている自分がいる。こんなにも立ち直れずにいるのに、可笑しな話だ。
赤字で記念日が書かれたカレンダー、2人の写真が入ったフォトフレーム。彼女がいたときのまま片付けられていない部屋は、喪失感を煽る。
「ごめんの一言すら言えないのか。馬鹿だな、俺は」
吐いた言葉は空気の一部となった。
チンッというトースターの無機質な音でハッとする。少々焦げかけてしまった食パンの香りだけが漂っていることに気がついた。君が毎朝飲んでいたココアの香りは、もうしなかった。
#物憂げな空
ただ、一点を見つめる。ぼんやりとした視界の先には、古びた3分の砂時計。先ほどなんとなく逆さにしてからというもの、サラサラと秒が落ちてゆく。カーテンの隙間から差し込む光に照らされる砂時計を見て思い出す。
そういえば、この砂時計を手にした日はいつになく清々しく晴れていたっけ。
思い立ってこじ開けた空は、理不尽なまでに青い。その眩しさに引け目さえ感じた。
あの頃の自分は、純粋だったのだ。美しい青空を見て心が昂った。気分が晴れた。しかし今はどうだろうか。青空の美しさを鬱陶しく思い、気分は雨模様だ。
空模様は、それを目にする人間の心模様によって明朗にも、物憂げにもなる。
「物憂げな空だなぁ。いや、それは私のほうか。」
情けない自分に気づいてしまったらしい。
砂時計が落ち切った。