#たった1つの希望
1人の小説家がいた。家族も友人もなく、人間嫌いだった。細々と連絡を取る相手はいるものの、家から出ることもなかった。
小説家は、自分の文章が好きではなかった。小説というものには他人の評価が付き纏う。表現がどうだとか、伏線がどうだとか、世界観がどうだとか、登場人物がどうだとか。幸いにも小説家の作品は世間では高評価を得ているが、自己満足で文章を書いている小説家にとって、高評価でも低評価でも、他人から評価されるというのはなんとも気に入らなかった。人間というのは感情に左右されやすいもので、評価されることを酷く嫌っている小説家は、いつしか自己満足で書いていたはずの自分の文章すら気に食わなくなっていた。
信じられるものが何もない小説家にとって、それは致命的なことだった。今まで、文章だけが取り柄であり人生だったのだ。自分で書いた文章を自分で読むのが好きだった。しかし今では世間の声が頭を過り、吐き気がする。小説家は人生を失った。
ところで、小説家が書く文章はラストが魅力的だと好評だった。誰もが想像できないものや、読み手の想像に任せ様々な意味に捉えることのできるものなど、ラストシーンで読み手を魅了していた。
小説家が新しく執筆している作品は、もうすぐラストシーンに差し掛かるところだ。さて、「始まりがあれば終わりがある」と良く言われる。それなら意図的に終わりを作らなければどうなる?永久に始まったままになるのではないか。終わりという幕が下がらない物語も、たまには良いのではないか。
小説家は長年連れ添ったペンを大切そうに置く。
いつもより幾分か高い景色を見ていた。
裸足の足は静かに揺れていた。
3/3/2024, 9:22:46 AM