木々の枝から枝ヘ跳躍する。慣れた抜け道ではあるが、今は大事なものを抱えているから殊更慎重に。
まったく、今日はハラハライライラしたよ。
私預かりの身分で行方不明になるなんて迷惑な話だ。
説教だよ!城へ帰り着くのなんて待っていられないね。
『どうして崖から落ちたりしたの。』
君を探すのに部下を動員した。皆、浮き足立って大騒ぎだ。
滑り落ちた跡を見つけた者の賞与には、色を付けなきゃいけなくなったよ。
不機嫌を隠す気の無い私の言葉に、腕の中の " 荷物 " は殊勝な顔を見せる。…が、どうも緊張感がない。私が睨めば大抵の人間は震え上がるのに、彼女はまるで怖がってくれない。
私でも……パンパンに腫れて変色した足首でもなく、飛ぶように過ぎる周りの景色に気を取られている。
『…聞いているのかい?』
一際高い枝の上で立ち止まって問いかける。私の苛立ちが漸く伝わったようだ。謝罪と、紅葉を一枝お土産にと思って、という言い訳を受け取り、この上無く大きな溜息が出る。
何で崖上の紅葉なんだ。お土産なんて良いからさっさと帰ってくれば良いものを!
それ以上弁解する気はないのか、気付けば黒い瞳が私を見つめていた。
綺羅綺羅して……否、なんなの。私はまだ怒っているんだよ。じとりと見返すが、彼女は気にもせず微笑みを浮かべて言った。大きな鳥のようだ、と。……この私のことを。
……嗚呼、もう!!!
呆れと心配と愛おしさで胸がむず痒くって、何て言ったものかわからないよ。君の元へ縫い留められて、最早この心は何処へも飛んでは行けない。
『もう外出は禁止だよ。』
さんざん弄んでくれたんだから、少しくらい意地悪されても文句は言えないよね。
【飛べない翼】
尾花に火種を落とす。
乾いた枯れ枝に引火させたら、上から杉の葉を乗せて……
よし。これで少しすれば、どんどん煙が出てくるはずだ。
そう思ったら、急に目の前がくらりと揺れた。傷は大したことないけど、疲れがもう限界。
焚き火の側に横向きに倒れる。
『独りになっちゃうとはなぁ…』
追手を引き受けてくれた上司の背中を思い出す。偵察の結果次第で合図を送り、味方の軍が一斉に攻めに掛かるのだ。
その狼煙が今、俺の手で上がる。
『――…』
口が勝手に想い人の名前を呟いた。上司と一緒に囮役になった女の子。君はまだ無事でいる? 俺たちは狼煙さえ上げれば退却できるから、どうか二人とも、無事でいてね。
弱っている時は考えることも弱気だ。煙が目に沁みる。
俺たちはこうやって、一番にやられていくものなのかな。
真っ先に燃える尾花のように。何かに後を託して。
目が痛い。眠い。ほめて、ほしい……
目を瞑ると、左目から零れた涙が右頬へと伝っていく………
上司の背中で目が覚めた。
後ろを歩いていた想い人が上司よりも先に気付いて、煙の吸い過ぎで気絶していた、と教えてくれる。
『……風向きも考えずに火なんか焚くな』
上司は、俺の行動につらつらとダメ出ししながら歩いて行く。重要任務を果たしたんだから褒めてくれたって良いのにと文句を言ったら、女の目が無くてもそのくらいやれ、と言われた。……べつに意識なんかしてないですよっ!
ちぇっと口を尖らせると、会話を聞いていたその子がクスクス笑うので恥ずかしくなって、へらっ、と笑い返した。
……まあ、良いか。無事だし、置いて行かれなかったし。
上司(この人)、きっと何か奢ってくれるだろうから、それで褒められたと思っておこう。
【ススキ】
夜を拒んだ。
恋仲になってから、幾度か唇を吸っただけの娘の覚悟を。
望んでいないのでは決してない。そんなわけがない。
ただ、眼の前で哀れなほど震えながら袖を引く美しい娘に、この身の欲を曝け出すのは躊躇われた。彼女はまだ、年若いのだから。
『気持ちは嬉しい。……今夜は共に眠ろう。』
安堵……、いや落胆だろう。恥をかかされ、娘は震えていた肩を深く落として唇を噛む。その肩にそっと触れて引き寄せると、彼女の手が私の胸に添えられ腕の中に収まった。
髪の匂いを嗅ぎながら、すまない、と呟く。あまりお側に居られないから、と言う娘の涙声が返ってきた。
……耳が痛いな。すべて私の落ち度でしかない。
大切に、と言えば聞こえは良いが、定まった所属を持たず出歩くことの多い私だ。思っていた以上に、寂しがらせてしまっていた。
『私ではいけませんか。』
そうではない、と即座に答える。
貴女の思う私は清廉で、孤独で、冷徹であるようだがそれは違う。伝わり難くとも、この身の内には恋の熱情と浅ましい欲が確かにある。
『私とて男だ。君を想って自身を慰めたことも有る。』
小さな耳に唇を寄せ、言い聞かせるように囁く。
ばっと此方に向けられた顔は茹だった様に赤く、涙をたたえた震える瞳がいつもの何倍にも大きく見えた。
少し笑って、彼女の鼻へ自分の鼻を擦り付ける。瞼が落ちるが早いか唇を合わせた。啄み、吸って、もっと深くへ。
少しだけでも、君の想いへ沿えるだろうか?
そんなことを思いながら、これまでよりずっと深く、長く、唇を重ねた。
【脳裏】
じっくり腰を据えて、話すことにした。
もうそろそろ見ていられない。目の前の上司ときたら、ひらりと手を振って去って行った女(ひと)を見えなくなるまで目で追って溜息をついている。これで想いを認めないのだから、年頃の少女より女々しいというものだ。
『… 想ったところで仕方がないよ。』
私のようなのがあんな娘(こ)をさ、と言い訳がましく唇を尖らす様は、幼い頃とまるで変わらない。
確かに彼女をどう思うかは貴方の自由だ。だが、仮に…想像してみると良い。貴方の想いを彼女が嫌悪し、畏怖し、去って戻らないことがあるだろうか、と。
『やめてよ、』
『――。』
久しく聞かなかった少年時代の呼び名を聞いて上司は黙る。
私に引く気がないのが解ったのだろう。
怖がらずに、疑心を捨てて、己の本心と向き合え。さ、あの女(ひと)が、お前をどんな顔で見るのか言ってみろ。
『… わからない。』
頭の中で、ただ笑っている。白玉みたいな歯を見せて。
そう呟いて、男はまた溜息をついた。
… そら、解ったろう。お前は信じているんじゃないか。
誰をどれほど愛するかなど、決して自分では決められない。
だが、思いを遂げるための努力はできる。
さっさと腹を括りなさい、と言う私の言葉に、じとり、と険のある瞳が何とか言い返そうと見返してくる。
『説教臭いね。…歳なんじゃない?』
グズグズしていたら、貴方もあっという間に私の歳になりますよ。言うが早いかぴしゃり!と鼻先で襖が閉まった。
まったく、幾つになっても手の掛かる悪ガキめ。
【意味がないこと】
『くそぉーっ、悔しい〜〜〜!!!』
仰向けにひっくり返ったまま感情を思いきり吐き出すと、その声を待っていたように手拭いが差し出された。
初めての時は驚いた。好敵手へ勝負を挑みに幾度となく訪れてはいるが、この場所では見ない顔だったから。
『毎回ありがたいけど、まさか揶揄っていませんよね?!』
いつも負けている私を。語調が自然と強まってしまう。
私の言葉にその女(ひと)は、ハハハと声を出して笑った。
『貴方いつも、大声で口上を述べるじゃないですか。』
だから負けた方に要るだろうと思って持ってくるだけですよと、尤もらしい事を言いながら、今はもう見慣れた女が隣に腰を下ろした。
その情けをあの日以来、ずっと私が受け取っているわけか。
改めて不甲斐なさがこみ上げる。一回の勝負で二度負けた気分だ。…悔しい、悔しい!!!
私が顔を拭いたり頭にできたタンコブの場所を確認したりする間、この女は何も言わずに待っている。
その沈黙がありがたい。励ましだの慰めだのを口にされたらきっと余計に頭にきてしまって、二度と手拭いを受け取る気が無くなってしまう。
『……ありがとうございました。』
仏頂面で少し汚れた手拭いを返す。(洗って返すと言ってもどうせこの女は断る)はい、と言って苦笑される。毎回。
友人でもなく、敵でも味方でもなく、知り合いと言うには近いが、決まり切った言葉を交わすだけ。
やり取りを終えて別れる時、私とこの女が何なのかが解らなくて、妙なものだな、といつも思う。
べつに、名前の無い関係が不満なのではない。
でもいつか私が勝利を果たす時、貴女が好敵手(あいつ)に手拭いを渡して労るのかと思うと、嬉しくない気がしなくもない。
【あなたとわたし】