青空に洗濯物がたなびく。
今日は白いものが多くて大変だった。寝衣、包帯、手拭い…下帯。ほぼ全て上司のものだ。
やり始めたのは子供の頃で、もう習慣付いている。立場が変わった今では回数も減ったが、他の者に任せると思うと何か落ち着かない。
ふぅー、と、深く息をつく。空が高い。秋晴れだ。
薄手の寝衣はもう使わないだろうし、乾いたら少し厚手のものと取り替えよう。袷も出して、繕いが要るか確認して……
などと考えていると、スタスタと軽い足音が近付いてきた。覚えのある足運びに顔を上げる。
『あの方はお留守だぞ。』
やって来た女は目を見開いて足を止めた。尻端折りした自分の姿を思い出し居心地の悪さを覚えたが、女は笑顔で労いの言葉を口にする。おまけに足袋を廊下に投げ捨てて、裸足で縁を降りてくるから驚いた。
『怪我でもしたらどうするんだ。』
平気だとでも言うように、私に歯を見せて笑う。呆れたやつだ。いい天気と言われ、そうだなと返す。衣替えかと問われ、ああそろそろと返す。ぽつりぽつりと話しながら、女の視線は、空へと向かう。微笑っていた。
その薄い唇から、不意に有名な和歌の一首が零れ出た。
景色から連想したのだろう。…が、私は黙ったまま釈然とせず渋顔を作る。女は、はは、と笑った。足袋を履き直して去っていく背中に、呆れたやつだ、と声が漏れた。
『男の洗濯物に天の香具山は無いよ。』
ああ気まずいと呟いて、上司はそのまま文机に突っ伏した。あの女は貴方の下帯なんか気にしてやいませんよ。
そう口にすると、なんでお前に解るんだ、とばかりにジトリと睨まれた。藪蛇だった。
【衣替え】
もうすぐ半年。
彼女が此処へ来てから、殿の御前はもとより我々下々のむさ苦しい酒盛りにも大輪の花が咲く様になった。
今夜も、歌に舞はいかがと姿を表した彼女に部下たちは手を叩いて大喜び。日頃の労を労う席なのだから、今日ばかりは好きに盛り上がるといいさ。節度は持ってね。
彼女の歌は、ほとんどが聞いたことのないものばかり。
巡る星と陽、喜び、痛みや悼み、童の戯れ、そして恋。彼女の声で様々な詩を聞いた。詩に混ぜられた異国の言葉も、幾らか覚えた。時々ズキリと胸を刺すのに、聞き逃すまいとしてしまう。
『おお、いっちょやるか!』
部下の一人が立ち上がり、木札か何かを拍子木代わりに打ち鳴らし始めた。別の年若い部下が何人か、無理な裏声を出して歌に沿い始める。呵呵と笑いが起こり、彼らと彼女は親指を立てて合図を交わした。
……ふーーーん?
お前たちは、この歌を知っているんだね。
とやかく言う理由はないが、なんとなく彼らの名前を記憶に留めた。美しい歌声を騒音で遮ってくれちゃって、彼女が笑っていなければ減給したよ。
人の営みを、咲いては散り種を落とす花に例えて。
人生は無駄ではないと、光る奇跡だと彼女は歌う。
そんな風に、声を枯らして。
影に生きる私たちを、そんな詩で笑わせ、踊らせ、自分の事だなんて錯覚させて。……来世にまで、期待なんかさせて。
まったく、罪な女とは君のことだよ。
もうすぐ半年。
殿からは『構わん、好きにせよ』とお言葉を賜った事だし、それまでには何としてもものにするよ、君を。
【声が枯れるまで】
ずっと昔に捨てたのに、忘れられない名前がある。
かつての私を示す記号。
忘れたことさえ忘れ去った頃、亡霊のように帰ってくる。
彼女にそれが知れた時、ああ、またか、と目の前が暗くなった。
『…、それは忘れてくれないか。』
なぜ、と黒い目が問い掛ける。良い名前ですね、と微笑んでいた女(ひと)はその笑みを翳らせてしまった。でも話せない。君はその頃、私がどんなだったか知らないんだ。それで良いんだ。暫くの沈黙が落ち、彼女は小さな声を返した。
ごめんなさい、と。
何も悪くないのに、かつての私のせいで、それを明かせないせいで、君に寒々しい思いをさせている。返せる言葉が思いつかない。
彼女が一歩、私に近づいた。更に一歩。
両の手が片方ずつ彼女に取られる。呼吸も触れ合いそうな近さ。いつもより幾分冷たい手に強く掴まれ、互いの緊張が伝わる。
もう二度と口にはしない、と、小さな唇がささめいた。
…けれど、今日まで貴方を生かしたのなら、私はその名も大切に思います。かつての貴方を。
止まっていた呼吸がはっ、と流れた。
彼女の肩がびくりと震える。それでも視線は合ったままで、両手は強く繋がれていた。ゆるゆると指に力を入れ、その冷たい手を握り返す。
『いつか、そんな風に思えるだろうか。』
綺麗な顔がほんの少し赤みを戻して、未来の貴方に聞いてあげますよ、と言った。
その頃には貴方が気絶してしまうような女の秘密も教えてあげます、なんて明るく言いながら、色っぽく科を作るものだから笑ってしまった。
【忘れたくても忘れられない】
昼下がり。廊下であいつと出会した。
小さな風呂敷包みを手にしている。遣いでもあるのかと聞くと外の空気を吸いに、と言う。想定通り。
『時間が空いているから付き合おう。』
何でもない風を装ったが、目の前のやつは妙な顔をした。理由が怪しかった自覚はある。しかし誰かが必ず付き添う理由など、はっきり言って隠す必要は無い、と開き直る。
出会した、というのは嘘だ。昼前に上司から声が掛かり、半日の間、私が目付を任されていた。
『目を離さないで、でも邪魔もしないで。』
何をと問うと、すぐにわかるよと言われてしまい、それ以上聞く事はできなかった。だが、否やはない。
困ったように首を傾げながら、やつは退屈するが良いか、と言った。構わないと答える。
城を出て三刻程歩き、木々の間のぽっかりとした野原へ辿り着く。春には一面小花が咲いて見栄えもするが、今は枯れかけてくすんだ草が秋風に揺れているだけだ。
上司がこいつを一人にさせないのは、夏の初め頃から頻繁に体調を崩し、食欲が失せぐっと痩せてしまっているからだ。なのに、どうして体を引きずってでもこの寂しい場所へ来たがったのかわからない。
手荷物が開かれる。出てきたのは幾つかの、とても小さな握り飯。摘み上げ、のろのろと口へ運ぶ。その一口は鳥が啄むような量だった。溜息をつきながら長い時間を掛けて、やつはそれを食べ切った。日が傾いていた。
『風にあたると吐き気が和らぐらしい。』
あの時間が何なのか、何を報告したものかと思いながら上司を訪れると、そんな事を告げられた。食べようとしているのなら大丈夫、とも。上司の目は、先程別れたやつのものとよく似ていた。つい先程、ありがとう、と言って笑った瞳には、秋の午後の光が揺らめいていた。
【やわらかな光】
彼女が歩くと微かな気配がそれを追う。
正確には歩くどころかいつ起き、何を食べ、誰にどんな声を掛け、誰に何をされたか。読んだ本、書いた文字、果ては
湯浴みの様子まできっちりと見られている。
取り仕切っているのは自分だ。
城下で大評判の美しい旅芸人。彼女は城中の者たちの冷めた視線をものともせず、歌い踊り蜻蛉返りをし、南蛮の楽器を奏でてみせた。殿は大層お喜びになり、早速この新しい玩具を囲い込むべく逗留を命じる。大筋は予想していた。
しかし、警備をする立場としては些か面倒ではある。
『とりあえず、何処から来たかと何ができるか。後は妙な動きがないか観察して逐一報告して。』
上司の指示は妥当であるし、自分の本分でもある。
身元の定かではない流れ者を俄かに信用はできないのだ。
だから不満はないのだが、最近の当の上司はと言えば、何かにつけて忍ぶ様子もなく彼女に話しかけ、茶菓子を共にし、軽業にやんやと手を叩く始末。
……自分の立場、忘れてやいまいな?
『お前たちが見ているし、油断を誘うのも有りだろう。』
だったら、私の顔を見ながら話せよ。
今の所、殿を狙った刺客である可能性は低いが、叩いても叩いても埃どころか素性の一つも出ないのが気になる。
しかし、懸念を示した所で目の前の上司が行動を改めることはあるまい。彼に最も親しい同僚の、目の下の隈が思い出された。
『…色に惑うことのありませぬよう。』
わかっているよ、と、上司は笑う。
まあ、そうだろうが。実際、彼が色欲に惑わされて見誤るとは思っていない。ただ皮肉の一つくらいは言いたかった。
去り行く背中に届くよう、大きく嘆息する。部下も天井裏で、同じような顔をしているに違いなかった。
【鋭い眼差し】