風に身を任せ
「釣れないなぁ」
人もまばらな防波堤であくびをしながら釣り人はつぶやいた。
ふと、海沿いにそびえる山の向こうから見慣れぬものが飛んでくるのが目に入る。
丸くて大きい影だ。
近づくにつれそれが何かわかる。
気球だ。籠には誰の姿も見えない。
妙に低い高度でゆっくりこちらに近付いてくる。
次第にこのままではぶつかると気付き、釣り人は慌てて釣竿を持って逃げた。
間一髪、気球は目の前に墜落した。
あまりに突飛な出来事に心臓が早鐘を打つ。籠に近付いて恐々覗く。
中を見てひゅっと息を吸い込んだ。
そこには底が見えないほど敷き詰められた花と、それに埋もれて目を閉じた少女の死体が押し込められていた。
釣り人の通報で駆けつけた刑事は死体を見て呟く。
「まるで空飛ぶ棺桶じゃねえか」
「遺体の身元はわかったのであるか?」
協力者である探偵Eがひょっこり顔を覗かせる。
「遺体は、この近くの療養所にいた少女だ。今朝、行方不明届が出ていた」
刑事の言葉に、Eは気球を観察し始めた。
気球のバーナーの調整ダイヤルに巻き付けられた、一本の細い麻紐を指差した。
「この紐は、おそらくタイマー代わりである。一定の時間が経つと火力が弱まるよう細工されている。これは気球の知識がある者の仕業、それも、彼女を単に捨てたのではなく、どこか特定の場所へ届けようとした意志を感じるのであるな」
ふむ、と少し考えた後、刑事に調べ物を頼む。
「この少女が罹っていた病について教えてほしい。それと、療養所の患者やスタッフについての情報も頼むのである」
刑事は少し面倒くさそうな顔をしたものの、了承した。
刑事からの情報を受け取ったEは海辺の療養所を訪ねる。
中庭のベンチで空を見上げていた一人の青年に歩み寄った。彼の首には療養所のスタッフであることを示す名札がかかっている。
「君の爪の間には、まだ籠に敷き詰められたのと同じ花の、黄色い花粉が残っているのだ」
青年は静かに振り返る。その瞳は覚悟を秘めていた。
「彼女の死因は、長く患っていた心臓の病である。事件性はどこにもない。だが、君は彼女の死を病院のベッドの上で終わらせたくなかったのだ」
Eは静かに続けた。
「君は彼女が息を引き取った後、誰にも見つからないよう、一晩かけて気球を準備した。彼女を花で飾り、空飛ぶ棺桶に乗せて、彼女が一度も行けなかった海を見せてあげようとしたのであるな」
青年は力なく俯く。
探偵によって謎を暴かれた犯人は、静かに涙を流した。
「彼女はずっと自由になりたがっていた。
いつか大空を超えるような冒険をしたいといつも言っていた…彼女は死んでしまったけれど、僕はどうしてもその夢を叶えてあげたかったんだ……でも、無意味だ、遅すぎたんだ。何もかも。持っと早く連れ出してあげれば……」
肩にそっと手を添える。
「全てが無意味とは思えない。彼女の安らかな死顔を見てしまえばね」
その言葉に膝をつき、青年は堰を切ったように声を上げて泣き出した。
憎々しい程に晴れ渡る青い空には、一羽の鴎が風に身を任せて飛んでいた。
一年後
異国の地から来た探偵、Eとの推理勝負から一年後。
事件現場の洋館の近くを偶然通ったRは、ふと当時を思い出した。
推理力において他の追付いを許さないRだったが、あの時ばかりはひやりとさせられた。
社長と出会い探偵として何年も活動する中で、そんなことは初めてだった。
またあんな勝負ができないだろうか。
あれ以降、Eを超える探偵は現れなかった。
いつか彼がリベンジに来たりして。
そんなことを想像し、口角が上がる。
何処かでまた対決できる予感がした。
自分に敗北した時の彼の瞳。
そこには消えない闘志の炎が宿っていたから。
その時はきっとまた素晴らしい推理勝負ができるだろう。
まだ見ぬ謎解きへ想いを馳せて、Rは探偵社へスキップで帰って行った。
モンシロチョウ
暗いライブハウス内に、光が浮き上がる。
ステージの上に女性が立っている。
すぅと大きく息を吸うと、透き通った歌声をアカペラで会場に響かせた。
蝶の羽のような装飾を施された白いドレスがブラックライトに照らされて淡く発光し、幻想的な美しさを放っている。
続いてステージ上に柔らかなスポットライトが当たり、舞台袖から男性が登場しピアノの前に腰掛ける。
歌い続ける女性と一瞬アイコンタクトを取ると、歌声に寄り添うようにピアノの旋律を重ねた。
曲に合わせた穏やかな振付に女性のドレスの裾が揺れる。
その様子は花畑で戯れる蝶のように可憐だった。
演奏が終わると100名定員ほどの小規模な箱に、割んほどの拍手が起こる。
ステージの照明が明るくなり、ボーカルの女性とピアノ奏者の男性がお辞儀をする。
女性がマイクを手に持ち挨拶をした。
「本日は私たちのライブにお越しいただきありがとうございます。
このバンド、最後の活動となる日にこれだけの人に集まってもらい、幸せです」
途中で感極まったのか、長い睫毛に雫がきらりと煌めく。観客から声援が飛ぶ。
「俺らの歌姫!」
「ソロでもずっと応援してるっ」
その言葉に頭を下げて続ける。
「私は夢だったメジャーデビューをします。でも、レコード会社から提示された条件はソロとしての歌手活動でした。これまで一緒にやってきた相棒とお別れするのは悲しい。凄く悩みました。そんな私の背中を彼は押してくれたのです」
ステージ上で、男性は穏やかな顔で頷く。
「これまで何度も演奏してきたこのライブハウスとも、このバンドでやるのはお別れになります。すべてに感謝の意を込めて、本日を最高のステージにします」
会場に拍手が起きる。
「今回の衣装は蝶のように新たなステージへ羽ばたくというテーマで、いつもと違う趣を施しました。みなさん気づいていただけましたか。一見真っ白なドレスのようですが、蛍光塗料を使用していて、ブラックライトを当てると発光するようになっているのです」
衣装の裾をふわりと揺らして紹介する。
ゆるやかなMCの裏で、小休止と男性がピアノの陰に客席からは見えないよう並べて置かれていたペットボトルに口をつける。
「ちょっと私もお水を飲ませてもらいますね」
女性も同じように、ピアノの陰からペットボトルを取り、一口飲む。
女性が眉を顰めて、ペットボトルを眺める。
途端に大きく目を見開き、手からボトルを落とす。
「うっ」
そのまま喉を掻きむしって苦しみ出す。
周囲の人は何が起きたかわからず呆然と女性をみていた。
彼女はしばらく苦しんで、やがてばたりとステージに倒れ伏し、動かなくなる。
「き、救急車っ」
我に帰ったピアノ奏者が叫んだと同時に、止まっていた空気が動き出す。
会場は騒然となった。
「警部、本当に彼は腕利の探偵なんですか」
若い刑事は小声で尋ねた。
視線の先では、緩くウェーブした黒髪を目元が隠れるまで伸ばした陰気な青年がライブハウスの隅で本を読んでいる。
忙しなく捜査に動き回る警察官をちらちらと見ているが、振り向かれると素早く本を読むフリをする。
知らない人間に話しかけられないようだ。正直、現場からかなり浮いている。
「そう言うな。彼の助言を得るようにとの上からの指示だ」
上司は渋い顔で答える。
「警察官ではないものに捜査情報を共有させるなんて…一体何者なんです」
「よくわからん。膨大な知識でこれまでも難事件をいくつも解決しているらしい。
探偵になる以前は有名な推理作家だったって噂だ」
渋面のまま、警部は探偵に近づいていく。
「ご苦労様です。事件の概要を説明させてもらいますね」
声を掛けられた探偵、Eはびくりと肩を振るわせ、本から視線を上げた。
「お、お願いするのである」
警部に促され、刑事が手元の資料を読みながら説明する。
「事件は午後、このライブハウスで起きました。
バンドの公演中、ステージ上でボーカルの女性が死亡。
ペットボトル飲料に混入された毒物が死因でした。
第一被疑者は、被害者と同じバンドメンバーでピアノ奏者の男性です。
状況的に意図して彼女を毒殺できたのは彼だけだと思われます。
なぜなら彼はステージ上でピアノの陰に置かれた2本のペットボトルから、毒のない方を先に選んで飲んだのです。
衆人環視のステージ上で、毒入りペットボトルを彼女に残しておけたのは彼一人です。
自分を裏切り、バンドを解散してソロデビューを果たそうとする彼女に対する殺害動機もあると思われます。
開演前にペットボトルに一本だけ毒を入れ、自分は毒の入っていないボトルを先に選ぶことで、彼女を毒殺したのだとしか考えられない。
浅慮でずさんな、すぐにバレる犯行ですね」
刑事の言葉に、警部が眉を寄せる。
「決めつけるのはまだはやいぞ。
無差別的にステージ上のどちらかを殺せればいいと考えた第三者の犯行って可能性もある。
これから鑑識や関係者、被疑者からの聴取を行いますが、一緒に来られますか」
問われた探偵は首を縦に振る。
「我輩は後方で話だけ聞かせてもらうのである」
「よう、鑑識結果を教えてくれ」
警部に問われて、ステージ下で作業中の鑑識官は手を止め話し出す。
「詳しい成分の分析は署に戻ってからになるので、今わかっていることだけ報告しますね。
まず被害者の飲んだペットボトル、内容物は市販のトニックウォーターでした。ここから確かに即効性の毒物が検出されています」
「被疑者が飲んだ方のペットボトルも押収してあるんだよな、毒が入ってなかった方」
警部が尋ねる。
「はいそうです。こちらも中身はトニックウォーターでした」
「2つのペットボトルは見分けつくか」
その問いに鑑識官はそれが…と少し眉を顰めて続けた。
「2つは全く同じ見た目で、傷や付着物などの目印となるものもありませんでした。
内容物についてもどちらも色は透明で、炭酸の状態にも違いはなく、毒以外のものが混入していた形跡もありません。
ステージ上でお客さんに見られながら、じっくり観察する事もできないでしょうし、暗がりに置かれた二つのボトルを見分けることは不可能じゃないでしょうか」
その答えに若い刑事は目を見開く。
「じゃあ、被疑者はどうやって毒無しの方を選んだんだ」
警部が諌める。
「落ち着け、見た目で見分けは付かなくても、あらかじめ毒入りペットボトルがどの位置にあるかを把握していれば選べるだろう」
「なるほど、では次は会場スタッフから事件前後の状況を聞きましょう」
ライブハウスの控室にて、女性スタッフは緊張した面持ちで警部達の前のパイプ椅子に腰掛けた。
内気な探偵は部屋の端で本を読む振りをしている。
それに気付き、不思議そうな顔をしているスタッフへと、警部は質問を投げかけた。
「事件前後の出来事で貴方の知っていることを教えていただけますかな。特に毒物の入っていたペットボトルがどこに置かれて誰が動かしたかを知りたい」
「わ、わかりました。
ステージで飲むものはいつも出演者が自分たちで用意しています。
それを開演までそこの冷蔵庫で冷やしておくんです」
そう言って部屋の隅にある冷蔵庫を指差した。
刑事が中を覗くも空っぽだ。
スタッフは続ける。
「冷蔵庫からステージ上のピアノの陰に、ペットボトルを移動させたのは私です。
開演15分前くらいのタイミングでした。
ライブによっては演者の足元に置く事もありますが、今回はステージ全体を使った演出もあったので、バンドメンバーのお二人とも相談して、お客さんから見えないピアノの陰に置くことにしたんです」
「開演中、被害者の女性や舞台袖のスタッフからはペットボトルは見えましたか」
警部が尋ねるも、スタッフは首を横に振る。
「いいえ、うまく陰にかくれて見えなかったと思います。流石に、ピアノを弾く人には見えたと思いますが」
「それでは、ピアノ奏者の男性は開演までにペットボトルを触ったり、貴方がペットボトルを置くところを見ていたりはしませんでしたか」
うーん、と上を見て少し考える。
「それはないと思います。
バンドのお二人は開演30分前から直前まで会場外のエントランスで来客に挨拶していて、一度も舞台袖には来ませんでした。
なので、触る事も、私が会場の冷蔵庫からピアノの陰にペットボトルを置くところも見られない。
お二人が舞台袖に待機したのは、お客さんが入りステージ上が完全に暗くなった後でした。
しかも、ピアノは下手側に置かれていたが、ピアノ奏者の男性が待機していたのは反対側の上手袖です。
開演後に舞台袖から登場しているので、ステージに上がるまで、近づくことはおろか目視することさえ難しいと思います。
ライブのメイキング映像を撮ってるスタッフがいたので、その動画を見れば私の言ったことは大体確認できると思います」
スタッフの聞き取りが終了後、警部達は映像を確認した。
ステージ全体を写した映像は、開場し客が入り始めてから事件が起きた瞬間までもをはっきり捉えていた。
加えて、エントランスで挨拶をしている演者二人の映像も長尺でしっかり残っている。
これらの映像からスタッフの話の正しさが証明された。
刑事は頭を抱えた。
これで被疑者にはどちらのボトルが毒入りかを確認する目印も、時間も無かったことがわかった。
ステージ上という衆人環視の元、被害者にだけ狙ったペットボトルを選ばせることは不可能な状況だったのだ。
彼が2分の1の確率で自分が死ぬことを許容しての博打のような犯行だったのか。
それとも、犯人は彼でなく、他のスタッフやファンがバンドメンバーのどちらでもいいから殺したいと毒を仕込んだ犯行だったのか。
刑事達の議論は混迷を極めていた。
Eは少し後ろで刑事達の話を聞きながら静かに考えていた。
無差別的な犯行ではないかとの意見はどうも違和感を感じる。
だが、その正体がわからない。
行き詰まり、外の空気が吸いたくなる。
一人で薄暗いライブハウスから出ると、真っ赤な夕空が街の合間に広がっている。
道の端に咲いたタンポポに、モンシロチョウがとまった。
陰惨な事件が起きているというのに、外はのどかなものだ。
息を吐いて伸びをする。
ふと、目線がモンシロチョウで止まる。
とある知識が脳裏に蘇った。
それは一見どうでもいい雑学のように思えた。
モンシロチョウの羽はその名の通り、人間の目にはオスもメスも真っ白に見える。
しかし蝶の目には全く違って見えるそうだ。
紫外線が判別できるのだ。
オスの羽は紫外線を吸収するため、黒っぽく見えるが、メスは紫外線を反射するため、白く光って見えるという。
「紫外線……、違って見える………、トニックウォーター………まさか」
脳内で様々な情報が渦を巻く。
Eは慌ててライブハウス内に戻ると、事件直前のステージの映像を再び確認する。
「やはりそうだ」
何が起きたかを確信し、関係者をステージへ集めるため、立ち上がった。
「犯人がわかったって本当ですかっ」
ピアノ奏者の男性が詰め寄る。
Eはステージ上にピアノ奏者の男性、会場スタッフ数人、警部達を招集した。
なぜか会場の照明は落とされ、小さな灯りのみがステージを照らしている。照明室にもスタッフが待機しているのが見えた。
ステージの真ん中、被害者の倒れた位置に警察の引いた人の形をした白線があり、事件の存在を生々しく主張している。
関係者一同は緊張した面持ちで探偵を見やった。
当人は複数人からの視線に加え、大声で詰め寄られているストレスに今にも倒れそうな顔色で立っている。
「お願いしますよ、名探偵」
苦い顔をした警部に小声で囁かれる。
Eは深呼吸をすると背筋を伸ばす。
「そ、その前に貴方に確認したいのである」
そう言ってピアノ奏者の男性に、シルクの手袋をつけた手で、ステージ上で飲まれた事件の証拠品である毒入りペットボトルと、彼の飲みかけのペットボトルの二つを取り出し見せる。
「このトニックウォーターをステージで飲むために購入し、冷蔵庫に入れて置いたのは貴方だと、刑事から聞いたのだ」
ピアノ奏者は頷く。
「えぇ、彼女も僕もこれが気に入っていたんです。普段からよく飲んでいました」
「歌手はライブ中、ゲップをしないよう通常は炭酸は避けるものであるが、何故ライブでトニックウォーターを?」
Eの追求に男性は全く動じた様子を見せず、少し悲しげに目を伏せる。
「そうですね。普段はいくら好きでもライブ中は飲みません。でも今回は解散ライブでしたから。僕たちの思い出の飲み物で、最後を飾ることにしたんです」
男性の返答に、Eは顎に手を当てて、ふむと呟く。
一息あけて質問する。
「それでは、貴方達が愛飲しているという、この二つのトニックウォーターはどこのメーカーのものであるか?」
男性はわずかに目を見開いた。
その反応にEの長い前髪の隙間から瞳がきらりと輝く。
「ラベルに書いてある通り、ウィルキンソン社のものですよ。見てわかるでしょう」
「ほう、それは二つともであるか?」
「っ。しつこいな。そうだといっているでしょう」
男性はイライラした様子だ。
張り詰めた緊張が高まる。
それを打ち破るように、Eはぱちんと両手を合わせて、くるりと男に背を向ける。
「質問は以上である。ご協力感謝する。それでは、これからこの殺人者のトリックを我輩が暴いてみせるのである」
「な、何をっ」
驚く男性や関係者をよそに、Eはピアノの方へスタスタ近寄る。
そして、事件当時のペットボトルがどこに置かれていたかを刑事へ尋ね、その通りに2本のペットボトルをピアノの陰に置いた。
「皆、ペットボトルが見える位置に移動してくれ」
関係者達はおずおずと場所を移動する。
ペットボトルが見える位置は限られ、鍵盤の前、ピアノ用の椅子の周囲に人が密集する。
しかし殺人者と呼ばれたピアノ奏者の男性は、鋭くEを睨みつけたまま、その場に立っている。
それに構わず、探偵は話し続ける。
謎を前に、普段の気弱さは何処かへ行ったようだ。
「今からライブの始まりと全く同じ照明を再現するのだ。この事件は無差別的な毒殺などではない。明確に被害者を狙った殺人だ。これがその証拠である」
Eはそう言うと、照明室のスタッフに手を挙げて合図を出す。
照明が消え、次にブラックライトが幻想的にステージを照らす。
「あっ」
会場スタッフの一人が声を上げる。
その視線の先を追った警部も息を呑んだ。
ピアノの陰に置かれたペットボトル。
その一本だけが幻想的な青い光を放っていたのである。
発光しているのは事件当時、ピアノ奏者が飲んだペットボトルで、被害者の飲んだ毒入りのペットボトルは暗いままだ。
2本の違いは一目瞭然となっていた。
「これは…一体どういうことだ。中身は同じトニックウォーターでそれ以外のものは含まれていないはずなのに」
刑事が呆然と呟く。
Eは口元に微かに笑みを浮かべる。
「実はこれは、トニックウォーターに含まれる『キニーネ』という成分がブラックライトに反応しているのである。
キニーネの分子には、紫外線を吸収して目に見える青い光を放つという特別な性質があり、暗い場所でブラックライト、つまり紫外線を当てると、液体全体が神秘的な青色に発光するのだ」
「では、なぜ毒入りの方は同じトニックウォーターなのに光らないんだ?」
刑事が尋ねる。
「ピアノ奏者はこれをウィルキンソン社のものだといった。それが事実だからだろう。
キニーネという成分は、本物のキナにしか含有されていない。
ウィルキンソン社やサントリー社等の一般によく出回るトニックウォーターはキナは使用せず、香料などで代用している。
だから光らなかった」
光るボトルを指差して続ける。
「一方でこの光っているトニックウォーターのように、本物のキナを使った本格派の商品ももちろん存在する。例えば、フィーバーツリー社のものは、日本でも輸入食品店等でよく取り扱っているのであるよ。
彼のものが光ったと言うことは、わざわざウィルキンソン社のボトルに、フィーバーツリー社などの別の会社の商品を入れていたことになるのだ」
男はわなわなと震えながら探偵の話を聞いている。
「よく考えたと思う。キニーネは毒物でも何でもないし、トニックウォーターに含まれていて矛盾はないものだ。成分が検出されたとして、ブラックライトで発光すると言う特性を知らなければ、犯行の目印に使われたと気付くのは難しい。
これを見れば、毒が入っているペットボトルの識別は容易であるということがわかるであろう」
「そんな!そんなのは知らない、ただの言いがかりだっ」
「貴方が先ほどついた嘘。二つのボトルに入っているトニックウォーターは同じ会社であるというのは、成分を分析すればよりはっきりするのだ」
男は言葉に詰まった。
唇を噛み締め、俯く。
「でもなんで…殺すなんて、そんなに憎んでいたの」
思わずといった様子で、女性スタッフが呟く。
彼女をきつく睨み、男は叫んだ。
「違う!愛していたんだっ。美しい彼女を、この場所を、この時をどんな形でも永遠にしておきたかった。
僕から離れ、変わってしまう彼女なんて、見たくなかったんだ…」
男は言い終えると、諦めたようにがっくりと項垂れた。
犯人を逮捕した後、警部は探偵が人知れずぼそりと呟く声が耳に入った。
「…ふむ、今回はなかなか刺激的なトリックであった。
タイトルをつけるならば、モンシロチョウ毒殺事件だろうか…」
何て不謹慎な。この男にとっては被害者や遺族痛みなど目に入らず、謎を解明することに楽しみを覚えているだけなのだろう。
そう思い、苛立ちを感じたが探偵のお陰で犯人逮捕に至ったのも事実なのでぐっと飲み込む。
しかし、モンシロチョウというのは言い得て妙だと思う。
輝く瞬間を永遠にしたいという犯人のエゴにより未来を奪われた被害者の女性は、まるで殺され美しいまま標本に貼り付けされた蝶のようだと感じたからだ。
警部は羽ばたくことのできなくなった彼女に目を閉じて、静かに黙祷した。
忘れられない、いつまでも
Eは6年前の敗北に囚われ続ける。
自分より賢いものはいない。
臆病者のEは傲慢にも、世界を見下していた。
馴染めないのは、周囲の知能が低すぎるから。
孤独であることに無理矢理理由をつけた。
屈折した仮説の証明のため、探偵として難事件をいくつも解決した。
自分より優れた者は現れなかった。
それは、己の価値の証明だった。
そうすることでしか、社会と関われないと信じていた。
名探偵と呼ばれだした頃、異国の地で本物にぶち当たる。
一瞬で鮮やかに事件を解決した彼は、仲間に囲まれて笑っていた。
完全なる敗北だった。
光の中で自分にはない物を腕いっぱいに持って、当たり前に笑う彼。
何もない自分の唯一の拠り所であった頭脳でさえ、遥かに優れていた。
Eの歪んだ仮説は音を立てて崩れた。
自分を保つための鎧は無くなった。
取り戻すためには、彼に勝利するしか道はない。
そうでなくては、永遠にこの孤独に苦しめられるのだ。
思いは年を重ねるごとに増していく。
彼に取っては取るに足らない勝負だったろう。
自分のことなど、憶えてすらいないに違いない。
それでもEは片時も忘れることができない。
確実に彼に勝利する方法を考え続ける。
夜は更けていく。
今晩も目の下の隈は深まる一方だ。