狭い部屋
ずっと、閉じ込められていたんです。
わたし以外は誰もいない空間。空っぽの箱みたいなところに。
わたしのかたちが折れ曲がって、ぐちゃぐちゃになって境目も見えない、ただわたしという存在だけがそこにある。
もともとのかたちはよく覚えていないけれど、箱の唯一開くところがずっと気になっていた、ような。
いつから? ええと、初めから、でしょうか。
たまに箱が開くときは、ただなにかが投げ捨てられて。...ええ。捨てられていたの、あの子たち。
わたしのなかにいるあの子たち、この何も無い世界で唯一の「わたしでないもの」。
わたしでは、なかったもの。
あの子たちがわたしと混ざりあっても、あの子たちのことはわたしには分からなかった。
わたし以外のだれかとお話できるなんて、これが夢というものなのかしら。
いつだってあなたたちはわたしの世界を眺めるばっかりで、誰もお相手して下さらなくて。
だから、ほんとうに嬉しいの。
こうして、外の世界に触れられたこと。わたしでないものとお話できること。ずっと、あなたたちとお話をして、触れ合ってみたかったの。
あなたたちはいろいろな色でできているけれど、中をひらけばみんな、おんなじ色なのね。
わたしも、あなたたちみたいになりたいわ。
そうすれば、もっといっしょになれるでしょう。
失恋
「失恋というものは恋を失うと書くけれど、それは結局何を指すのだろうね」
自分のかちこちに固まった身体と見慣れた床しか見えない視界の外で、ぱたん、と声の主が持っていたであろう本が閉じられる音がした。
おそるおそる身体を起こして目の前のひとを見上げれば、普段と全く変わらない静謐な瞳がこちらを見つめている。
分かっていた。そのひと――先輩は、こちらのことなんて全然全く興味が無いってこと!
先輩の世界には自分の興味関心だけしか存在していないんだろう。有り体に言えば、先輩は社会生活が終わっている。何年も付いて回ってお世話している後輩のことも、どうせ都合の良い小間使いとしか思っていないに違いない。いつだって自分勝手で他人の予定なんて関係なく連絡してくるし、呼び出すにしても行先を伝えるのを忘れてるし、なんとか合流しても自分の好奇心に一直線でこちらのことなんて気にしてくれない!
でも、知りたかったことに辿り着いたときの先輩の瞳はきらきらしていて、誰にも見せたくないくらいに美しくて。
後輩として、先輩の研究のファンとして、先輩のことが好きなただの1個人として。世界中に散らばった数多の純粋な輝きを集め続けるこのひとを、傍でずっと守っていたかった。
だと言うのにこのひとときたら、後輩の一世一代の告白に返す言葉が「恋を失うとは何なのか」? 相変わらず過ぎてため息が出る。
あ~あ。やっぱりこのひと、自分に向けられた他人の感情や言葉なんかに興味無いんだな。
なんとかいつも通りの笑顔を作って先輩に話しかける。まあ、先輩は違いなんてなんにも気づかないんだろうけど。
「...先輩、さすがにその返しは傷つきます」
「おや、どうして?」
先輩は普段の雑談と全く同じ調子で言葉を返してくる。人の気も知らないで、なんでもないみたいに。
「だって、告白したら失恋の話をされるって...それはもう、お断りされてるみたいなものじゃないですか」
つい視線を落として拗ねたように呟く。目の前のひとを直視すれば、自分の言葉がなんの影響も与えていないことが分かってしまって辛かった。
「...ふふ。なに、その顔」
柔らかい声音が聞こえたと同時に、頬に先輩のてのひらが触れた。
てのひらが触れた!?!?!?!?!?
こんな接触初めてなんですが!?!?!?!?
慌てて先輩に視線を戻せば、悪戯っぽく煌めく瞳がこちらを見つめている。いつも好きなものだけを捉えているはずの瞳がこちらを向いている。それを見つめ返す勇気も無く、思わず目を逸らしながらなんとか言葉を返した。
「せ、先輩!?!? どうしたんですか、いつもはこんなこと、」
「君が、告白してるくせに最初から諦めたような顔してるから。面白くて」
「はあ!?」
何だこの人、魔性? 恋敵が増えるからやめてほしい、切実に。
そこそこ長く関わっているけれど、こんなに楽しそうに話しかけてくれるのは初めてだ。いつもは先輩の大きな独り言に対して勝手に相槌を打つくらいで、こちらのことは視界にすら入っていないはずなのに。
困惑と少しの高揚の中、先輩は滔々と語るように続けた。
「私は定義の話をしているだけだよ。
君はこの告白が受け入れられるとは思っていない、即ち自分が失恋すると思っているだろう。
恋を失うと書いて失恋。だが、恋を失うとはなんだ?
恋とは愛情を誰かに向けること、あるいはその心のことを指し、それ自体に他人は介入していない。もしこちらが告白を受け入れなかったとしても、恋を失う...失恋にはならないのではないかと考えたんだよ」
...えっと、勢いに負けて聞いてしまっていたけれど、結局この人は何を言いたいんだ? まあ確かに、先輩への告白が諦め気味だったのは確かだけれど。
「まあ、辞書的な意味をこねくり回しているに過ぎないけれどね。私はそういうものに馴染みが無いから」
ひと通り話し終えたのか、どうだい? と先輩がこちらの反応を伺ってきたので心臓が跳ねた。いや不可抗力だよ、だっていつもこんなことしないから..!
「...そんなこと言われても。結局受け入れてくれないんじゃ、恋心なんて持っていても辛いだけじゃないですか」
なんとか平静を装って言い返すと、先輩はほんの少しだけ目を見開き、ずっとこちらの頬に添えていた手を下ろした。
「伝わらなかったみたいだから、もう一度言うよ。
君の恋心は君のもので、それを向けられている私がどうにかすることはできない。
でも、それはその心を捨てたほうがいいってことにはならないと、私は思う」
先輩は話しながらちらりとこちらに視線をやってきたが、困惑したままのこちらに気づいたのかそのまま続ける。
「そうだなあ...こういうのはどうかな?
君がその心を持ち続けることで、その心を向けられている私自身の感情の変化を見る、っていうのは」
「、え」
「ずっと私の傍にいてくれた君ならきっと、面白い結果を見せてくれると思うんだ」
こちらを真っ直ぐに見つめて微笑む先輩の瞳は、きらきらと明るく煌めいて見えた。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
「あー、えっと、本日はお日柄も良く...?」
「生憎、そんなありふれた前置きのスピーチを聞きに来たわけではございませんの。用件はなあに? 手紙に書かれていた通り、従者のひとりもつけずに来てあげたのだから感謝していただきたいわ」
「え。たしかに従者は連れてきていないみたいだけどさ、僕の視界には君の腕の中から僕を睨みつけている猫が見えるんだけど」
「ええ、それが何か? 貴方はここに私1人で来てほしいと書いていらっしゃったのだから、その通りにしたまでのことですわ」
「えっと、いやいやそうはならないでしょ!? 1人、即ち君ひとりでってことだったんだけど。え、普通伝わるよね...?」
「歳若くて形式的な手紙のひとつもまともに書いたことのない貴方へ忠告してさしあげますが、自分が伝えようとしたことが漏れなく自分の意図した通りに他者に伝わるとは思わないことね」
「君も同い年だろ、同じクラスなんだから」
「私はひとりでここに参りましたわ。猫と共にいるからといって、ふたりで来たとは言わないでしょう」
「まあたしかに、君と猫が一緒にいるんならそれは『ふたり』じゃなくて『ひとりと1匹』だろうけどさ...」
「では貴方の懸念も解決したところで、改めて用件を仰ってくださらない? 昼休みが終わってしまいますわ」
「さっきから思ってたんだけどその喋り方どうしたの?」
「あら、私の話し方がお気に召しませんの?」
「いや4時間目までは普通だったのに、突然異世界ものの貴族令嬢みたいな話し方されたら誰だって驚くでしょ」
「マイブームですわ」
「唐突だなあ」
「先程の古典の授業で姫君というものに興味を抱いたので、まあ手っ取り早く姫君に成りきってみていますわ」
「国とか時代とか違くない? 絶対こてせんの前でやらない方がいいよ」
「我が校の国語科が誇る敬語警察の前でやるわけありませんわ、こんな適当な話し方。痴れ者め」
「急に武士みたいな語彙で貶された...」
「用件がそれだけならば教室に帰らせていただきますわね。というか呼び出すなら放課後とかにして下さらない? 貴方が昼休み開始時間に呼び出すものだから、ランチがまだですの」
「それはごめん、いやこんな会話をしたいわけじゃなくて」
「なあに? それとも本当に『本日はお日柄も良く...』から始まるスピーチで私を感動させて下さるの? まあ土砂降りですけれどその挨拶は天気のことではないからこういうときも使えると聞いておりますが。この間募集があったスピーチコンテストは英語限定ですわ、お間違えではありません?」
「それも違くて、...いや、君とこんなにお喋りできるってだけで僕には嬉しいことなんだけど、あの...伝えたいことがあって!」
「だからそれをさっさと言えって言ってるんですわ愚か者めが。これ以上引き延ばすなら貴方にこれの読み方を聞いてお終いということにさせますわよ。でははい、『子子子子子子子子子子子子』」
「猫繋がりがこんなところに!? というか今君が言っちゃってるじゃん!」
「あら、ごめんあそばせ。では読み方もわかったところで今日の逢瀬はタイムアップですわ。ではまた」
「え、逢瀬って、あの、え?
......ま、待って! もう引き延ばさないから! 今すぐ言うから! 言わせて下さいお願いします!」
ごめんね、おにいさん。少し時間をもらえるかな。
わたしのこと、知らないか?
...ぁ、いや。突然話しかけて、すまなかった。
どうやら人違いだったみたいだ。
ほら、おにいさんの頭のてっぺん、くるりとはねた髪の毛が、どうも知り合いと似ていたもので。
ふふ、それだけで判断しないほうがいい、って?
全くその通りだね。
次はそれ以外のところにも、ちゃんと気を配るよ。
...わたしのことは知らないけれど、雰囲気がよく似た子を知っている?
そうなんだ。
へえ。妹を守る、優しい子だったんだ。
すごいね、わたしはそういうの、うまくできないんだ。
...まあたしかに、わたしはおとなしいほうでは無いね。そうでなければ、見ず知らずの大人に話しかけたりなんてできないよ。まだ中学生なんだよ? これでも。
うん?
...ああ、まあ、そうだね。知り合い、というほどの人では無かったかも。
あんまり、喋ったことも無い人で。
うん、おにいさんみたいな体つきで、くるりとはねた髪の毛が見えたんだ。
...どうしたの、おにいさん。
わたしはあなたがしっている、その子ではないよ。
そうだろう?
どうしたの、おにいさん。
汗をかいているの? 冬なのに。
寒いよね。いつもはお姉ちゃんと家でゆっくりするんだけれど、今はそういう感じじゃなくて。
つい、家を出てきてしまって。
でも、そのおかげでおにいさんに会えた。
ねえ、おにいさん。
わたしのこと、本当にしらない?
わたしのことはしらなくても、わたしとよく似た女の子のこと、おにいさんは知っているよね。
あのとき、家から慌てて出ていくおにいさんの、てっぺんでくるんと丸まった髪の毛。
床に転がっていたわたしは、遠くなっていくそれを見上げることしかできなくて。
お姉ちゃんを、守れなかった。
だから今日、おにいさんに会えて良かったよ。
あの日から毎日毎朝、家を出る前にちゃんと準備をしていたんだ。
でも、今日でお終いにできる。
ごめんね、おにいさん。