失恋
「失恋というものは恋を失うと書くけれど、それは結局何を指すのだろうね」
自分のかちこちに固まった身体と見慣れた床しか見えない視界の外で、ぱたん、と声の主が持っていたであろう本が閉じられる音がした。
おそるおそる身体を起こして目の前のひとを見上げれば、普段と全く変わらない静謐な瞳がこちらを見つめている。
分かっていた。そのひと――先輩は、こちらのことなんて全然全く興味が無いってこと!
先輩の世界には自分の興味関心だけしか存在していないんだろう。有り体に言えば、先輩は社会生活が終わっている。何年も付いて回ってお世話している後輩のことも、どうせ都合の良い小間使いとしか思っていないに違いない。いつだって自分勝手で他人の予定なんて関係なく連絡してくるし、呼び出すにしても行先を伝えるのを忘れてるし、なんとか合流しても自分の好奇心に一直線でこちらのことなんて気にしてくれない!
でも、知りたかったことに辿り着いたときの先輩の瞳はきらきらしていて、誰にも見せたくないくらいに美しくて。
後輩として、先輩の研究のファンとして、先輩のことが好きなただの1個人として。世界中に散らばった数多の純粋な輝きを集め続けるこのひとを、傍でずっと守っていたかった。
だと言うのにこのひとときたら、後輩の一世一代の告白に返す言葉が「恋を失うとは何なのか」? 相変わらず過ぎてため息が出る。
あ~あ。やっぱりこのひと、自分に向けられた他人の感情や言葉なんかに興味無いんだな。
なんとかいつも通りの笑顔を作って先輩に話しかける。まあ、先輩は違いなんてなんにも気づかないんだろうけど。
「...先輩、さすがにその返しは傷つきます」
「おや、どうして?」
先輩は普段の雑談と全く同じ調子で言葉を返してくる。人の気も知らないで、なんでもないみたいに。
「だって、告白したら失恋の話をされるって...それはもう、お断りされてるみたいなものじゃないですか」
つい視線を落として拗ねたように呟く。目の前のひとを直視すれば、自分の言葉がなんの影響も与えていないことが分かってしまって辛かった。
「...ふふ。なに、その顔」
柔らかい声音が聞こえたと同時に、頬に先輩のてのひらが触れた。
てのひらが触れた!?!?!?!?!?
こんな接触初めてなんですが!?!?!?!?
慌てて先輩に視線を戻せば、悪戯っぽく煌めく瞳がこちらを見つめている。いつも好きなものだけを捉えているはずの瞳がこちらを向いている。それを見つめ返す勇気も無く、思わず目を逸らしながらなんとか言葉を返した。
「せ、先輩!?!? どうしたんですか、いつもはこんなこと、」
「君が、告白してるくせに最初から諦めたような顔してるから。面白くて」
「はあ!?」
何だこの人、魔性? 恋敵が増えるからやめてほしい、切実に。
そこそこ長く関わっているけれど、こんなに楽しそうに話しかけてくれるのは初めてだ。いつもは先輩の大きな独り言に対して勝手に相槌を打つくらいで、こちらのことは視界にすら入っていないはずなのに。
困惑と少しの高揚の中、先輩は滔々と語るように続けた。
「私は定義の話をしているだけだよ。
君はこの告白が受け入れられるとは思っていない、即ち自分が失恋すると思っているだろう。
恋を失うと書いて失恋。だが、恋を失うとはなんだ?
恋とは愛情を誰かに向けること、あるいはその心のことを指し、それ自体に他人は介入していない。もしこちらが告白を受け入れなかったとしても、恋を失う...失恋にはならないのではないかと考えたんだよ」
...えっと、勢いに負けて聞いてしまっていたけれど、結局この人は何を言いたいんだ? まあ確かに、先輩への告白が諦め気味だったのは確かだけれど。
「まあ、辞書的な意味をこねくり回しているに過ぎないけれどね。私はそういうものに馴染みが無いから」
ひと通り話し終えたのか、どうだい? と先輩がこちらの反応を伺ってきたので心臓が跳ねた。いや不可抗力だよ、だっていつもこんなことしないから..!
「...そんなこと言われても。結局受け入れてくれないんじゃ、恋心なんて持っていても辛いだけじゃないですか」
なんとか平静を装って言い返すと、先輩はほんの少しだけ目を見開き、ずっとこちらの頬に添えていた手を下ろした。
「伝わらなかったみたいだから、もう一度言うよ。
君の恋心は君のもので、それを向けられている私がどうにかすることはできない。
でも、それはその心を捨てたほうがいいってことにはならないと、私は思う」
先輩は話しながらちらりとこちらに視線をやってきたが、困惑したままのこちらに気づいたのかそのまま続ける。
「そうだなあ...こういうのはどうかな?
君がその心を持ち続けることで、その心を向けられている私自身の感情の変化を見る、っていうのは」
「、え」
「ずっと私の傍にいてくれた君ならきっと、面白い結果を見せてくれると思うんだ」
こちらを真っ直ぐに見つめて微笑む先輩の瞳は、きらきらと明るく煌めいて見えた。
6/3/2023, 3:00:16 PM