カラフル
十人十色、多様性というものはそこまで高尚なものなのだろうか。確かに、人の個性を潰すことは悪いことなのかもしれない。しかし、だからといって"過度"に個性を伸ばし、多様性に富んでいることを重視するのは間違いではないか。行き過ぎた多様性や個性の推進は、当為自己という名の理想像を下げる温床になるのではないか。悪い自分や他人を認める温床になるのではないのだろうか。
そもそも、私たちは"普通"な人間なのだろうか。みんながみんな平均値に収まっているわけではない。むしろ個性的なことが当たり前なのではないか。みんなと違う自分に辟易した経験は誰でもあるはずだ。普通であることを到達点として、悪い個性を排除しながら良い個性を磨き上げて、唯一無二の自己を形成するのが理想的な道なのではないのか。最近の世界の風潮は、良い個性と悪い個性を一緒くたにして、その全てを肯定しているように伺える。
複数の色が混在しているのが多様性に富んでいることなのか。単一の色で独立していることが排外的なのか。多様性を過度に意識している国ほど、宗教的対立や差別が横行しているように私には伺える。多様性を意識すればするほど多様性から遠のくことになることに、いつになったら気づくのだろうか。
私の憶測に過ぎないが、最近の風潮に踊らされた人間や国は、馬鹿の一つ覚えのように様々な色を重ね塗りして、濁りきった色になって、そのうち本来の色を見失う。
楽園
愛する人のいない楽園か、愛する人のいる地獄かであるならば、私は後者を選ぶ。どこに行くかではなく、誰といるかが最も大切なものだと思うから。
生きる意味
誰もが生きる理由を探すために生きている。しかし、それで片付けられるほど人間は単純でない。理解し、納得することが出来るまで我々は考えることを放棄しない。
善悪
何かを善悪と断罪する権限を持つのは誰なのだろうか。
法律か。常識か。良識か。はたまた宗教か。
私には皆目わからない。私にとっては、善悪と二極化すること自体が難しく、定義することも困難である。
そもそも善悪とはなんなのだろうか。この世に善悪というものがもとから存在するのだろうか。それとも、人間が作り出した概念に過ぎないのか。善行を積んできた人間は報われるのか。悪行を重ねてきた人間は裁かれるのか。そう考えれば考えるほど、この世は残酷で、無機質で、空虚なものなのかもしれないという持論が姿を現して、私の視界を塞ぐ。息をすることも難儀になる。今まで自分が安住してきた地中が揺らぐ感覚だ。
私たちはこれからも何者かによって善なのか悪なのか断罪されるだろう。かえって私たちが何者かを断罪することもあるだろう。そうやって人間は生きていくのだろう。
ここまで持論を書き連ねて、こう言うのも良くないかもしれないが、私のような浅学非才な人間の言うことは鵜呑みにしないで欲しい。私のようなちっぽけな人間に善悪、この世、人間にまつわる真理を理解できるはずがないのですから。
流れ星に願いを
刹那の間に流れては消えてゆく、数多の人々の願いを受け取った星を見ることはできるのに、我が身の上の星は見えない。口惜しいにも程がある。