故意に窓ガラスを割った。
バリン、と尖った固い音が鳴り響く。
近所にある、洋館めいた装いの一軒家。
親に酷く叱られた挙句、家を閉め出されて苛立っている時、ふと目に入った美しいステンドグラスの窓が、どうにも気に入らなかったのである。
そこは人気(ひとけ)のない寂れた町に突如として現れた家で、敷地の周りだけまるで死の国のような、どこか仄暗い空気をまとった静穏さに、何をしても良いと思った。
「――『神は光である』」
ヒュ、と声にならない悲鳴をあげる。
見知らぬ年老いた男が、隣に立っていた。
怒られる前に殺されるのではないか、と思わせるような生気のない不気味な男は、青白い顔で洋館を眺めている。
「ご……めんなさい……」
震える喉から絞り出すようにして、か細い声で謝った。
窓ガラスを割ったことへの謝罪というよりも、どうか命だけは助けてくださいという懇願のようだった。
聞こえたのか、聞こえていなかったのか。
男は僕に見向きもせず、口を開いた。
「ここは無人だ。良かったな」
「え、でも……ここは少し前にできたばっかじゃ――」
そこまで疑問を口にしてから、慌てて口を噤んだ。気軽に口答えしていい立場ではないことを今さら思い出した。
「ここの家主は死んだ。建設工事も打ち切られた」
言われてみれば、立派な外観に対して室内はガランとしているし、床も土が剥き出しのままである。
庭の草木が乱雑に生い茂り、おまけに表札も無い。
「……じゃあ貴方は、その家主さんの親族なんですか」
男は何も答えず、頷きもしない。
先ほどからの妙な無視に、違和感を覚える。
そういえば、神は光とか言ってなかったか。
まさか、怪しいシュウキョウの信者だったりして――
男の右手が僕の肩を離れ、ゆっくりと洋館の割れた窓ガラスの向こうに指先が向けられた。
無言で責めているのだろうか。それともやはり恨まれていて、殺されるのだろうかという恐怖が駆け巡る。
「君の行いが善いとは言えないが――救われた命もある」
男の指差す方向を見やると、色彩豊かなガラス破片に囲まれるようにして、小さな緑が芽吹いていた。
僕の悪事によって室内に生まれた、微々たる陽だまり。
生命(いのち)を照らす、一筋の光。
2024/11/05【一筋の光】
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[注釈]
作中の「神は光である」という台詞は、決して「怪しいシュウキョウ」などではなく(ご不快に思われた方がいらっしゃいましたら、大変申し訳ございません)、キリスト教の聖書に記されていたという言葉です。
ステンドグラスのルーツもキリスト教の信仰にあり、その歴史は初期キリスト教時代にまで遡るのだとか。
皆様も、よろしければぜひ調べてみてください。
ご覧いただきありがとうございました。
Sweet Rain
ティーカップの縁に、口紅がべとり。
高発色の、ディープなオレンジブラウン。
カップにはまだ、なみなみと紅茶が残されていた。
「……お口に合わなかったかしら」
私がおずおずと尋ねると、彼女は薄く微笑み首を振る。
「お腹がいっぱいなのよ」
そう、と控えめに返事をすれば、またたく間に再び無言の時間が訪れた。彼女の笑みも、消えた。
今日は旧友である彼女と、我が家でお茶会の約束。
私が結婚してからは、願っても会えなかった。
思い出話に花を咲かせるつもりが、どうしてこんなにも重苦しい再会になってしまったのだろうか。
彼女の到着時間に合わせて焼いたマドレーヌは、お互い手をつけることもなく冷え切っていた。
「……大丈夫よ、貴女を独りにはしないから」
沈黙が破られたことより、彼女の表情が気になった。
学生の頃から気の強い彼女が、私の顔色を窺っている。
静かに促されるように、彼女の視線を辿った。
――べとり。
エプロンに、白地のレースが見えないほどの何か。
鈍くて重苦しい、暗赤色。
――べとり。
酷く散乱している部屋、不自然な果物ナイフ。
至るところに、赤、朱、赫。
日常的な暴力は、こうも人を狂わせるらしい。
掛け違えたボタンは、とうに引きちぎられていた。
長年叶わなかったお茶会がようやく開かれたということは、そうかつまり、ついに私は――
「た……すけて……」
殺し損なった。
警察に捕まる前に、「奴」に殺される。
気が付けば、奴に付けられた痣をしきりに擦っていた。
「――ちょっと御手洗、借りるわね」
それだけ言い残して、彼女は部屋を後にした。
あの果物ナイフが、消えていた。
2024/11/04【哀愁を誘う】
思いきり、変顔をしてみる。
当然、目の前の自分も変顔になる。
もし「向こう側」に「もう一人の私」がいたら。
彼女はちょっと、いや──かなり不憫である。
こんな私と表裏一体になったせいで、馬鹿馬鹿しいことを強制される羽目になっているのだから。……SF的存在に同情するというのも、かなり馬鹿馬鹿しいけれど。
鏡というのは、ずいぶん魅力的な代物だ。
気合を入れてフルメイクした時も、寝起きの絶望的なコンディションの時も、等しく「私」を映してくれる。
プリクラとか、『盛れる』写真加工アプリとかみたいに、こちらの精神に気を遣ってくれることは一切ない、そんな小憎たらしいところも好きだ。
「──お客様、そろそろお時間になります」
わかりました、と小さく返答し、私はカーテンを捲る。
205×年、前代未聞の法案が可決された。
鏡の売買及び使用の、禁止と規制。
自分の顔に絶望した者たち。
彼ら彼女らが選ぶのは、明るい未来ではなかった。
苦しい道を自ら歩む人々が、この国は多すぎた。
そんな時代で、時おり有料サービスの鏡施設を訪れては ありのままの自分を確認する私。まるで別の生き物を見るかのように、誰もが私に奇妙な視線を送る。
カーテンを潜(くぐ)り抜ける瞬間、ふと振り返る。
目の前に映る、「向こう側」の「もう一人の私」。
みんなは知らない。今やもう、知ろうともしない。
佇む「彼女」は、私と同じ間抜け面をやめていた。
まるで私に死ねと暗示しているかのように。
お前はルッキズムの敗者なのだと罵るかのように。
(……何度見ても、私って可愛くないんだな)
真に鏡に囚われているのは、「彼女」じゃない──
そんな私の絶望を察知したのだろうか。
鏡の中の自分が、ニタリとほくそ笑んだ。
2024/11/03【鏡の中の自分】
眠りにつく前に、ケーキを頬張りたい──
そんな夜もある。
裸足でベランダに出よう。毛布はいらない。
淡い月光に照らされ、ショートケーキの苺が鈍く光る。
あたし好きな物は最初に食べるタイプなの、と言わんばかりに、無遠慮に苺をフォークでぶすりと突き刺した。
ふと「もう死んでもいいかなぁ」って夜がある。
そんなことを いつの日かの君に言った。
「死にたい時は甘い物でも食べて寝るんだよ」
そう提言してくれた君は 程なくして首を吊った。
彼の傍らに 甘い物は見当たらなかった。
人の心のゆとりには旬がある。
それはまるで苺のように。時に甘く、時に酸っぱく。
彼の死に際の心は どんな味だったのだろうか。
ふと我に返ると、足の指先が霜焼けていた。
蚊に刺された時もそうだけれど、痒みというのはなぜ自覚してから酷くなるのだろう──ぼそりと悪態をつきながら、指同士をぐにゃぐにゃと擦り合わせる。
今夜はまだ、大丈夫。
口端に付いた生クリームを拭って、ため息をひとつ。
睡眠薬のように、私は毎晩甘い物を胃に流し込む。
眠りにつく、その前に。
2024/11/02【眠りにつく前に】
「本気の恋とは、仮に銃撃戦を強いられたとき、真っ先に彼彼女の心臓を撃ち抜きたいと願うものである」
突然そう呟いた彼は、煙草を燻(くゆ)らせ遠い目をする。
「……誰の言葉だ?」
俺にも寄越せ、と彼の胸ポケットから皺くちゃの箱とライターを引ったくり、返事を聞く前に火をつけた。
咥えた瞬間、カビ臭い苦味が鼻まで突き抜ける。
不味い煙草だと、俺は文句を垂れた。
「まァ……初恋の人ってトコ」
失礼な俺の言動を気にも留めない様子で、彼は照れくさそうに答える。頬なんか赤らめやがって、生意気だ。
ふぅん、と生返事をすれば、お前聞いておいてキョーミ無いのかよと笑い飛ばされる。
「お前さァ、もう俺と逃げちゃおうよ」
「……言葉と行動が一致してないようだが」
──ゴリ、と固い殺意がこめかみに押し付けられている。
「なァんで殺しちゃうのさ。お前が目指してた名の売り方ってのは、『こういうの』じゃないだろ?」
罰のように、長くゴーストライターをやっていた。
俺には才能がある。しかし名声はない。
浅ましい女の言いなりになる自分を、幾度も恥じた。
己の人生に失望し、世界からほとんど色が消え失せた頃、ふいに俺の視界を鮮やかな赤が覆った。
思わず声が漏れるような、見惚れる景色だった。
「……お前の女の趣味、本当最悪だよな」
旧友の目が、一気に血走り見開かれる。
愚かにもこの男は、自分の惚れた女がまさか親友の夢を妨害し、その才を搾取し、順当に恨まれ、呆気なく殺されたとは知らないのだ。
そしてこの男の最も愚かなところは、長年俺の傍にいながら、俺の気持ちに露ほども気付かなかったことである。
武器を取ろう。
お前の惚れた言葉は、俺の言葉だ。
「『本気の恋とは、仮に銃撃戦を強いられたとき、真っ先に彼彼女の心臓を撃ち抜きたいと願うものである』」
2024/09/12【本気の恋】