ティーカップの縁に、口紅がべとり。
高発色の、ディープなオレンジブラウン。
カップにはまだ、なみなみと紅茶が残されていた。
「……お口に合わなかったかしら」
私がおずおずと尋ねると、彼女は薄く微笑み首を振る。
「お腹がいっぱいなのよ」
そう、と控えめに返事をすれば、またたく間に再び無言の時間が訪れた。彼女の笑みも、消えた。
今日は旧友である彼女と、我が家でお茶会の約束。
私が結婚してからは、願っても会えなかった。
思い出話に花を咲かせるつもりが、どうしてこんなにも重苦しい再会になってしまったのだろうか。
彼女の到着時間に合わせて焼いたマドレーヌは、お互い手をつけることもなく冷え切っていた。
「……大丈夫よ、貴女を独りにはしないから」
沈黙が破られたことより、彼女の表情が気になった。
学生の頃から気の強い彼女が、私の顔色を窺っている。
静かに促されるように、彼女の視線を辿った。
――べとり。
エプロンに、白地のレースが見えないほどの何か。
鈍くて重苦しい、暗赤色。
――べとり。
酷く散乱している部屋、不自然な果物ナイフ。
至るところに、赤、朱、赫。
日常的な暴力は、こうも人を狂わせるらしい。
掛け違えたボタンは、とうに引きちぎられていた。
長年叶わなかったお茶会がようやく開かれたということは、そうかつまり、ついに私は――
「た……すけて……」
殺し損なった。
警察に捕まる前に、「奴」に殺される。
気が付けば、奴に付けられた痣をしきりに擦っていた。
「――ちょっと御手洗、借りるわね」
それだけ言い残して、彼女は部屋を後にした。
あの果物ナイフが、消えていた。
2024/11/04【哀愁を誘う】
思いきり、変顔をしてみる。
当然、目の前の自分も変顔になる。
もし「向こう側」に「もう一人の私」がいたら。
彼女はちょっと、いや──かなり不憫である。
こんな私と表裏一体になったせいで、馬鹿馬鹿しいことを強制される羽目になっているのだから。……SF的存在に同情するというのも、かなり馬鹿馬鹿しいけれど。
鏡というのは、ずいぶん魅力的な代物だ。
気合を入れてフルメイクした時も、寝起きの絶望的なコンディションの時も、等しく「私」を映してくれる。
プリクラとか、『盛れる』写真加工アプリとかみたいに、こちらの精神に気を遣ってくれることは一切ない、そんな小憎たらしいところも好きだ。
「──お客様、そろそろお時間になります」
わかりました、と小さく返答し、私はカーテンを捲る。
205×年、前代未聞の法案が可決された。
鏡の売買及び使用の、禁止と規制。
自分の顔に絶望した者たち。
彼ら彼女らが選ぶのは、明るい未来ではなかった。
苦しい道を自ら歩む人々が、この国は多すぎた。
そんな時代で、時おり有料サービスの鏡施設を訪れては ありのままの自分を確認する私。まるで別の生き物を見るかのように、誰もが私に奇妙な視線を送る。
カーテンを潜(くぐ)り抜ける瞬間、ふと振り返る。
目の前に映る、「向こう側」の「もう一人の私」。
みんなは知らない。今やもう、知ろうともしない。
佇む「彼女」は、私と同じ間抜け面をやめていた。
まるで私に死ねと暗示しているかのように。
お前はルッキズムの敗者なのだと罵るかのように。
(……何度見ても、私って可愛くないんだな)
真に鏡に囚われているのは、「彼女」じゃない──
そんな私の絶望を察知したのだろうか。
鏡の中の自分が、ニタリとほくそ笑んだ。
2024/11/03【鏡の中の自分】
眠りにつく前に、ケーキを頬張りたい──
そんな夜もある。
裸足でベランダに出よう。毛布はいらない。
淡い月光に照らされ、ショートケーキの苺が鈍く光る。
あたし好きな物は最初に食べるタイプなの、と言わんばかりに、無遠慮に苺をフォークでぶすりと突き刺した。
ふと「もう死んでもいいかなぁ」って夜がある。
そんなことを いつの日かの君に言った。
「死にたい時は甘い物でも食べて寝るんだよ」
そう提言してくれた君は 程なくして首を吊った。
彼の傍らに 甘い物は見当たらなかった。
人の心のゆとりには旬がある。
それはまるで苺のように。時に甘く、時に酸っぱく。
彼の死に際の心は どんな味だったのだろうか。
ふと我に返ると、足の指先が霜焼けていた。
蚊に刺された時もそうだけれど、痒みというのはなぜ自覚してから酷くなるのだろう──ぼそりと悪態をつきながら、指同士をぐにゃぐにゃと擦り合わせる。
今夜はまだ、大丈夫。
口端に付いた生クリームを拭って、ため息をひとつ。
睡眠薬のように、私は毎晩甘い物を胃に流し込む。
眠りにつく、その前に。
2024/11/02【眠りにつく前に】
「本気の恋とは、仮に銃撃戦を強いられたとき、真っ先に彼彼女の心臓を撃ち抜きたいと願うものである」
突然そう呟いた彼は、煙草を燻(くゆ)らせ遠い目をする。
「……誰の言葉だ?」
俺にも寄越せ、と彼の胸ポケットから皺くちゃの箱とライターを引ったくり、返事を聞く前に火をつけた。
咥えた瞬間、カビ臭い苦味が鼻まで突き抜ける。
不味い煙草だと、俺は文句を垂れた。
「まァ……初恋の人ってトコ」
失礼な俺の言動を気にも留めない様子で、彼は照れくさそうに答える。頬なんか赤らめやがって、生意気だ。
ふぅん、と生返事をすれば、お前聞いておいてキョーミ無いのかよと笑い飛ばされる。
「お前さァ、もう俺と逃げちゃおうよ」
「……言葉と行動が一致してないようだが」
──ゴリ、と固い殺意がこめかみに押し付けられている。
「なァんで殺しちゃうのさ。お前が目指してた名の売り方ってのは、『こういうの』じゃないだろ?」
罰のように、長くゴーストライターをやっていた。
俺には才能がある。しかし名声はない。
浅ましい女の言いなりになる自分を、幾度も恥じた。
己の人生に失望し、世界からほとんど色が消え失せた頃、ふいに俺の視界を鮮やかな赤が覆った。
思わず声が漏れるような、見惚れる景色だった。
「……お前の女の趣味、本当最悪だよな」
旧友の目が、一気に血走り見開かれる。
愚かにもこの男は、自分の惚れた女がまさか親友の夢を妨害し、その才を搾取し、順当に恨まれ、呆気なく殺されたとは知らないのだ。
そしてこの男の最も愚かなところは、長年俺の傍にいながら、俺の気持ちに露ほども気付かなかったことである。
武器を取ろう。
お前の惚れた言葉は、俺の言葉だ。
「『本気の恋とは、仮に銃撃戦を強いられたとき、真っ先に彼彼女の心臓を撃ち抜きたいと願うものである』」
2024/09/12【本気の恋】
「──それ。『時を超えるカレンダー』」
ふらっと立ち寄った、埃っぽい骨董屋。
両手を擦り合わせながら、いつの間にか傍にいた老店主が、突拍子もないことを囁いてきた。
「……冗談はよしてください」
ふと気になって立ち止まっただけなのに、私が品定めしているようにでも見えたのだろうか。こんな黄ばんだカレンダー、別に欲しくもなんともない。
大体、カレンダーは未来の予定を立てる物であって、当日を迎えたその瞬間から塵(ごみ)となる。
いつの時代かも分からぬこの代物など、ただの薄汚れた紙面にすぎないではないか。
「お客さん、過去の予定だって立派なモンですぜ」
「……そもそも『予定』という言葉から矛盾していると思うのですが」
「じゃあ『設定』だ。今の自分は理想か? 現状は満ち足りているか?──すべては過去が担っているからな」
唾を飛ばしながら、妙に力説してくる老店主。
呆れつつも、最後の付き合いだと私は口を開く。
「じゃあ、ご自分で使ったらどうです。店頭に出して売るなんて、もったいないでしょう」
「このカレンダーは正真正銘、本物さ。……ただ一つ、煩わしいことがあってだな」
鼻頭をさすりながら、老店主は肩をすくめてみせた。
「どうやら過去を書き変えると、『その変化が実現するまで』の間、時空を彷徨うことになるみたいでな」
そして彼は、ニヤリと笑う。
「んで、今日が『その日』だ」
恐る恐る、ぱらりとカレンダーを捲る。
パリパリと紙が擦れる音が、店内に響いた。
【19××年 9月11日】
──完全犯罪を成立させた。
「……なるほど。どうりで見た覚えのある顔だと」
忘れもしない、一家殺人事件の犯人。
当時10歳だった私は、2階の窓から飛び降りて逃げ出し、警察に保護された。
この犯人はずっと、恐れていたのだ。
唯一自分の顔を見て生き延びた私の存在が、証言が。
背筋が凍る。カレンダーを壁から引き剥がし、骨董品を掻き分けて、無我夢中で外に出た。
このカレンダーはどうしよう。
ライターで燃やしてしまおうか。それとも──
【19××年 9月11日】
──犯行は失敗、未遂で捕まる。
時を超えて、『その日』まで。
私も『予定』を立ててみせようか。
2024/09/11【カレンダー】