嗚呼、雨よ。どうか一刻も早く 洗い流してくれ。
アスファルトに染みゆく この血飛沫を。
そして一刻も早く ここから立ち去らねば。
山道の急カーブ。見渡す限り木に覆われた晦冥。
鹿でも轢いたか。あるいは猿か。
そんな期待はフロントドアを開けて 間もなく散る。
嗚呼、人だ。自分と同じ形をした生き物が そこにいる。
どうか一刻も早く立ち去りたいのだが 足が動かない。
絶え間なく降る小雨が しっとりと肌を潤す。
濃い土の香りに紛れ 這い回る赤黒き鉄の匂い。
「……ずっと、ここにいたのか」
朽ちたガードレールと木陰の隙間に 人影ひとり。
嗚呼、[また] 轢いてしまった──否、これは[警告]か。
なおも穏やかに降り続ける小雨。
その静穏さに隠された 確かな殺意を全身に浴びて。
そいつと、私と。
見つめ合い動かぬまま 雨に佇む。
2023/08/27【雨に佇む】
朧げな歌詞を口ずさみ 鍋底に焦げ付いたキャラメルを
たっぷりのミルクで温め溶かす 休日の午後。
木べらでゆっくりとかき回しながら
ほろ苦いホットミルクを煮ている間にビスケットを1つ。
「こら、おまえはだめ」
昼寝に飽きた飼い猫が台所にやって来て
ビスケットが詰まったガラス瓶の口を覗いていた。
慌てて瓶の蓋を閉めると
にゃあ、と ちょっぴり不満げな顔をしてみせる。
「おまえは こっちを1つだけね」
そう言って市販の猫用おやつを差し出せば
たちまちご満悦の表情で瞳を輝かせ 指を舐めてきた。
ぐらっと鍋底からミルクが盛り上がり
焦がしキャラメルの香ばしい匂いが台所を包む。
もう1つだけ、と昼寝を再開した彼の目を盗んで
私は静かにビスケットを頬張った。
2023/04/03【1つだけ】
『嘘つきチョコレート』
──そう筆記体の文字で書かれた紙箱が目に止まった。
悪戯グッズのひとつだろうか、と物思いにふける。
残業が日常になりつつある繁忙期
胃を酒で満たすのも疲れるほどの疲労を抱え
かと言って まっすぐ帰宅するのも気が進まないこの頃。
気まぐれで立ち寄っただけの埃臭い古書店で
帰りがけに まさか自分の興味を惹く品があったとは。
手のひらサイズの箱は意外と薄手の柔い素材で、
手に取ってみるとほんのりカカオの香りが漏れていた。
本当に売り物なんだろうか。
値札を探そうとして箱を裏返すと、
潰れた手書きのインク文字で小さく何か書いてある。
『隠し事を秘めた貴方へ』
思わず苦笑する。
確かに俺はこのチョコレートにふさわしい嘘つきだ。
この嘘に値段など つけられまい。
[気まぐれ] で毎日通ったこの店は、そして [彼女] は
とうの昔に見抜いていたのだ。
迷わずチョコレートをレジまで持って行き、
待ちくたびれたような顔をした [彼女] と目が合う。
「──もう、嘘はつけませんね」
そう微笑んだ [彼女] の後ろで
木製の大きな時計が0時を回るのが見えた。
言い訳がましく長い俺のエイプリルフールは
どうやらもう終わりらしい。
2023/04/01【エイプリルフール】
――ギィ。
ひどく甘美な香りに誘われて
寝ぼけ眼を擦りながら木製の苔むした扉を開いた。
“決して真夜中に魔女の森へ足を踏み入れてはならない”
“命知らずな者さえ恐れおののく魔境の地”
そんな古くから伝わる村の禁忌を破り、
森を散策していた僕は 濃霧に惑わされここまで来た。
暗赤色に鈍く光る月に照らされながら
鬱蒼と生い茂る草木を掻き分けて見つけた一軒の小屋。
建物を目視すると同時に 僕の意識を奪ったのは
泥臭い森に似つかわしくない、甘い甘い香り。
ギィ、と大きく木が軋む音をたてながら
おそるおそる 小虫が這う苔むした扉を開けた。
扉の向こう側 僕の視界いっぱいに広がるのは
無数の炎揺らめくキャンドル。
それぞれの魅惑的な香りを振りまき、
個性を殺し合いながら 混じり濃度を増すアロマは
眩暈がするほどに美しく 鼻腔を魅了する。
酔い潰れたように 埃っぽい床に倒れ込んだ僕は
微睡み そして深い眠りへ落ちていった。
――――ギィ。
2022/11/19【キャンドル】
何にも代えがたい、この美しき夜景。
眩(まばゆ)い光は くすんだ星空すらも照らし
限りなく深い闇に唯一無二の存在感を誇っている。
僕は幼い頃 この夜景に一目惚れした。
父さんや周りの大人たちは
そんな僕を「無神経で非常識だ」と叱った。
「あれは我々にとって、負の遺産なんだよ」
「どんどん環境も治安も悪くなっているらしいし」
どんなに僕を叱ったって、諭そうとしたって
長年抱いてきた憧れが そう簡単に消えることはない。
美しいことに変わりはないんだ。
それにどんな代償が払われていたとしても。
今夜も僕は宇宙(そら)を見上げて青い球体を探す。
……見つけた、やっぱり綺麗だな。
――地球。
2022/09/19【夜景】