忘れられない、いつまでも
お互いの孤独で繋がって
身体を許したあの夜闇の艶が
剥き出しのラインをなぞる
生温かく優しい感触が
この世に一つしか知らない何よりもの光を
心から大事に包むあの横顔が
忘れられない、いつまでも
一年後には生きているだろうか
一年後の自分は存在しているだろうか
何一つ想像なんてつかない
今でさえ自分の存在が実感できないんだから
明日世界が無くなるとしたら…
この先全ての不安、恐れ、過去の恨み、怒り、それら全てから解放される。自分そのもの、自我、意識のすべてが無に帰す。滅茶苦茶な世界がすべて跡形もなく消え去って、全ての生命が平等に、本当の意味で平等に召されますように。
死後なんてものすら消し飛んでいるかもしれませんが。
君と出会ってから、私は……
仮面の女は屋敷の縁側に腰掛けて考え込む。白髪を風に遊ばせ、獣のような尖った耳を立てながら、ぼんやりと庭の菊畑を眺める。
君のおかげで私の生活はずいぶん安心できるものになった。あれに付き纏われるようになってから暫くした頃、洞穴の先の鍾乳洞で彼女と出会った。彼女はかつて住んでいた村で差別を受け、鬱屈した心を爆発させた折に村中の人間を虐殺して逃れてきたと言っていた。まだここに一人で暮らしていた私は、初めは保護する目的で彼女を屋敷に住まわせた。それがいざ彼女との生活が馴染んでくると、広すぎる屋敷にささやかな色が増えたようで、私の生活にも心にも変化が起きた。最終的に、彼女をこの屋敷の住人として受け入れることにしたのだった。
彼女を受け入れたのは、単純に寂しさから彼女を手放したくなかっただけかもしれない。だがそれとはまた違う目的があった。彼女が私に心を開き始めた頃、私は彼女に悩みを告白した。――私に想いを寄せて付き纏ってくる男がいる、と。身寄りを無くしていたことから私に恩を感じていた彼女は、私を脅かす存在から体を張って私を守ると断言した。いざとなったら喧嘩も辞さないと豪語する彼女に、戸惑いながらもこの上ない心強さを覚えた。それ以来、彼女は私の護衛係として、日夜問わず私の側に付き従っている。
彼女に守られてどれだけ経つだろう。彼女に出会わなかったら、私はどうなっていただろう。あの彼の執念は、いずれ私を狂わせていたかもしれない。ぼんやりと考えながら庭先の菊の色を視線でたどる。
「犬神。」
聞き慣れた声がした。振り向くと、彼女が歩み寄ってくるところだった。しょっちゅう目にする詰め襟姿で長い黒髪をなびかせる姿には異様な雰囲気があるが、彼女独自のものと思えばそれも愛らしかった。何より私も、今のこの屋敷の住人たちも皆同じだ。
「田治見、何か用?」
私はいつものように話す。
彼女はその姿に反しどこかもじもじしていた。
「…さっき、そこで摘んだんだ。あんたに似合うかと思って……。」
後ろ手に隠した手を見せると、鮮やかな黄色の菊の花が握られていた。
「あら……まぁ、綺麗。」
私がそう言うと、田治見は菊の花を私の髪にそっと挿した。彼女は私を見ると一瞬息を呑んだような反応をし、すぐに冷静になって呟いた。
「素敵だ。」
私はくすぐったいような暖かさを覚え、田治見に微笑んだ。田治見は少し頬を赤らめて目をそらすと、そそくさと何処かへ行ってしまった。
彼女に差し出されたさり気ない想いを、私は密かに噛み締めていた。
異様な出来事というものは、時に人を選ばないものである。それは当たり前に過ぎていくはずの日常が、突如として変化するときのように。何気なく生きている人間が、突然事件の被害者に、あるいは加害者になるときのように。
未だ脳裏の片隅に辛うじて残っている幼少期の記憶がある。その場所へはどうやって辿り着いたのか分からない。辿り着いたというより、気づいたらその場所にいたという感じだ。湖を隔てた向こう、霧の立ち込める鬱蒼とした景色の中に、厳かに佇む巨大な邸宅が見えた。手前の建物は古式ゆかしい日本のお屋敷の構造だが、よく見ると奥に連なる造形は西洋の屋敷を思わせた。生気を感じさせない異様な雰囲気だが、不思議と恐ろしくはなかった。
眼前に広がる湖をぼんやりと眺めていると、視界の端に小さく何かが映り込んだ。目を凝らすと、白いボートのようだ。誰がが乗っている。黒い着物に白髪をなびかせる女性。その頭の上には獣のような尖った耳が生えている。湖の縁ギリギリの位置まで近づいて観察していると、不意に女性がこちらを振り向いた。
瞬間、全てが凍りついたようになった。風も、草も、霧も、水面も、全てが時を失ったように止まっている。遠く離れているはずの女性と目が合う。なぜか鮮明に見えるその顔は白い仮面で隠されていた。その奥から、目の前の湖の底のような深い蒼の瞳が見つめている。どこまでも冷たく刺し貫くような視線に、やがて意識が遠退いていった。
ハッと目覚めると、原っぱに倒れていた。当時いつも遊びに行っていた公園の外れの場所だった。空は日が傾きかけていて、家路を急ぐ人々が行き交っていた。慌てて起き上がり、一人走って自宅へ帰った。
今思えば、あれは遊び疲れて寝落ちした際に見たただの夢だったのだろう。大人になった今、自分の中で勝手に納得したつもりでいるが、どうにも腑に落ちないものを感じる。思い出してしまった記憶の違和感を抑えながら図書館へ向かう。仕事の資料作りのためだ。情報を求めて本棚に並ぶ背表紙を追っていると、ある背表紙の文字に目を奪われた。日本の元祖ミステリー小説のタイトルである。学生の頃にハマって一時期読み漁った記憶がある。思わず手に取りパラパラとページを捲る。流し読みをしているうち、あの不思議な記憶と重なるような場面がところどころに混ざっていた。屋敷、獣、仮面、湖………
ハタと気づいた。この本に描かれている光景は、かつて幼少期に見たあの記憶の中の景色と全く同じだ。読み進めていけばいくほど、頭の奥の霧がかった記憶が鮮明になっていく。もしもあれが夢だったとしたら、あの頃にはすでにこの本のストーリーを知っていたのだろうか?映画化もされている作品だ。可能性はある。だがやはり何かが引っかかる。何かを忘れていないか……残っている記憶は本当にそれだけか……他に覚えていたことはないか……なにか…………あのとき湖から見た屋敷は、ボートの女性は、こちらをただ見つめる瞳は――
本当に彼女だけだったか……?
その夜、布団の中でまぶた越しにあの景色が見えた。
巨大な日本家屋の屋敷の窓から、様々な風貌の奇怪な者たちが、それぞれ色の映える瞳をじっとこちらに向けていた。彼ら全員見覚えのある姿――それはあのミステリー小説のシリーズに登場するキャラクターと特徴がよく似ている者たちばかりだった。
彼らの幻が、忘れたはずの好奇心を引き寄せてならなかった。