サチョッチ

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異様な出来事というものは、時に人を選ばないものである。それは当たり前に過ぎていくはずの日常が、突如として変化するときのように。何気なく生きている人間が、突然事件の被害者に、あるいは加害者になるときのように。

未だ脳裏の片隅に辛うじて残っている幼少期の記憶がある。その場所へはどうやって辿り着いたのか分からない。辿り着いたというより、気づいたらその場所にいたという感じだ。湖を隔てた向こう、霧の立ち込める鬱蒼とした景色の中に、厳かに佇む巨大な邸宅が見えた。手前の建物は古式ゆかしい日本のお屋敷の構造だが、よく見ると奥に連なる造形は西洋の屋敷を思わせた。生気を感じさせない異様な雰囲気だが、不思議と恐ろしくはなかった。

眼前に広がる湖をぼんやりと眺めていると、視界の端に小さく何かが映り込んだ。目を凝らすと、白いボートのようだ。誰がが乗っている。黒い着物に白髪をなびかせる女性。その頭の上には獣のような尖った耳が生えている。湖の縁ギリギリの位置まで近づいて観察していると、不意に女性がこちらを振り向いた。

瞬間、全てが凍りついたようになった。風も、草も、霧も、水面も、全てが時を失ったように止まっている。遠く離れているはずの女性と目が合う。なぜか鮮明に見えるその顔は白い仮面で隠されていた。その奥から、目の前の湖の底のような深い蒼の瞳が見つめている。どこまでも冷たく刺し貫くような視線に、やがて意識が遠退いていった。

ハッと目覚めると、原っぱに倒れていた。当時いつも遊びに行っていた公園の外れの場所だった。空は日が傾きかけていて、家路を急ぐ人々が行き交っていた。慌てて起き上がり、一人走って自宅へ帰った。

今思えば、あれは遊び疲れて寝落ちした際に見たただの夢だったのだろう。大人になった今、自分の中で勝手に納得したつもりでいるが、どうにも腑に落ちないものを感じる。思い出してしまった記憶の違和感を抑えながら図書館へ向かう。仕事の資料作りのためだ。情報を求めて本棚に並ぶ背表紙を追っていると、ある背表紙の文字に目を奪われた。日本の元祖ミステリー小説のタイトルである。学生の頃にハマって一時期読み漁った記憶がある。思わず手に取りパラパラとページを捲る。流し読みをしているうち、あの不思議な記憶と重なるような場面がところどころに混ざっていた。屋敷、獣、仮面、湖………
ハタと気づいた。この本に描かれている光景は、かつて幼少期に見たあの記憶の中の景色と全く同じだ。読み進めていけばいくほど、頭の奥の霧がかった記憶が鮮明になっていく。もしもあれが夢だったとしたら、あの頃にはすでにこの本のストーリーを知っていたのだろうか?映画化もされている作品だ。可能性はある。だがやはり何かが引っかかる。何かを忘れていないか……残っている記憶は本当にそれだけか……他に覚えていたことはないか……なにか…………あのとき湖から見た屋敷は、ボートの女性は、こちらをただ見つめる瞳は――

本当に彼女だけだったか……?



その夜、布団の中でまぶた越しにあの景色が見えた。
巨大な日本家屋の屋敷の窓から、様々な風貌の奇怪な者たちが、それぞれ色の映える瞳をじっとこちらに向けていた。彼ら全員見覚えのある姿――それはあのミステリー小説のシリーズに登場するキャラクターと特徴がよく似ている者たちばかりだった。

彼らの幻が、忘れたはずの好奇心を引き寄せてならなかった。



5/4/2023, 2:58:20 PM