時を告げる蝶
羽ばたく音は、秒針の足音に似ている。
細く巻かれたゼンマイの口は、脳細胞の涎を啜る。
白昼夢が羽の表面を飾り、渦巻いては脈打つ。
半透明の目を覗き込めば、蝶の紡いだおとぎ話の世界が水晶越しに浮かび上がる。
なんとなく見覚えのある景色が見える?
もしもそれがあなたの夢の景色なら、それは蝶があなたの夢を訪ねた記憶。
時空を超えて、生命を巡らせながら、針で漕ぎ着く夢幻旅行。
心の灯火そのものが
形を成して現れる時
焔と呼ばれるその影は
何を訴え語るのか
「最近、変な夢を見るんです。」
愛人は唐突に話し始めた。
「❖❖(僕の彼女)と思われる人が、度々夢に出るんです。とてもきれいな姿で。ところが突然その背後から白い手が伸びてきて、彼女の髪をつかんで引きずり回すんです。それから仰向けにしたところを馬乗りになって、血だらけになるまで顔を殴るんです。彼女はとても怯えていて、これ以上ない恐怖を感じているようでした。」
彼女は暗い顔で、自分が見た夢の内容を恐れているようだった。淡々と語る言葉は重く、慎重に一つ一つ紡がれる。
「私もう見てられなくて、咄嗟に彼女から目をそらしたんですけど、彼女を痛めつけている手の主がどんな人なのか気になって、思い切って視線を上げたんです。」
彼女の言葉がふと途切れた。次の言葉を話すのを躊躇っているように見えた。しばらくの沈黙の後、彼女は言った。
「…その人の顔、私そっくりだったんです。」
その日の夜、僕は愛人の部屋から不審な物音がするのを聞いた。激しく地団駄を踏むような荒々しい足音が部屋中を駆け回っているような、普段の彼女が出すとは思えないような音だった。僕は慌てて愛人の部屋へ様子を見に行った。ドアを開けると、彼女は部屋の奥のソファーに座り込んでうたた寝をしていた。見慣れた愛らしい寝顔がスウスウと静かな寝息を立てている。こっそり部屋の中を探ったが、侵入された形跡も、これといった異常もない。何より愛人の身が無事だったことが幸いだった。
――よかった……。
ほっと胸を撫で下ろす。眺めているうち、日中彼女が言っていた言葉が思い出された。
「最近、変な夢を見るんです。」
「❖❖(僕の彼女)と思われる人が、度々夢に出るんです。――突然その背後から白い手が伸びてきて、彼女の髪をつかんで引きずり回すんです。それから仰向けにしたところを馬乗りになって、血だらけになるまで顔を殴るんです。」
「その人の顔、私そっくりだったんです。」
瞬間、ハッとした僕はすぐに愛人の部屋を飛び出し、本来の彼女のもとへ飛んで帰った。
ドアを破るようにして彼女の部屋へ飛び込むと、うなされている彼女の上に覆い被さるどす黒い闇の、血走った眼と目があった。
裏返しの欲望は、垣根を超えて同棲していた。
鏡の中の自分と話す。
貴方はだあれ?
貴方は私。
本当に全てが私?
自覚がないだけ
認めないだけ
嫌いな自分がそこにいる
ざわめきが聞こえる。
名前を呼ぶ声がする。
――こっち。
招く声。
――こっち。
どこだ。
――こっちへ来て。
誰だ。私を呼ぶのは。
――こっちへ来て。
どこにいる。
――こっち。
見えない。姿が見えない。
何も見えない。
あるのはただ一面の闇と白い波だけだ。
――こっちへ来て。
だめだ。どうやって行けばいい?
――こっち。
呼ばれているのは分かっている。だがそっちまでの行き方が分からない。
――こっちだよ。
教えてくれ。どうすればいい。
君はどこにいる。
――こっち。
どっちへ進めばいい?
――こっち。
声のする方へ懸命に歩を進める。
声を逃さぬよう、しっかりと聞き耳を立てる。
――こっち。
足先から冷え始める。
波の感触が足首を包み、やがて脛から膝へ上がってくる。
――こっち。
呼ぶ声は心なしか大きくなる。見えないながらも近づいているようだ。
――こっち。
足が下から浮きかけ始める。腰から下は既に水の下に沈んだ。
――こっち。
尚も声は聞こえる。どっちへ進んでいるかも分からない漆黒の中を、急き立てるような波と飛沫の音と共に進む。
――こっち。
私はどこへ向かうのだろう。声の主はどこにいるのだろう。
自力で見つけ出すのは不可能なようだ。
ひたすら声に従って進む。
――こっち。
足がつかなくなってきたので平泳ぎで進む。
全身ずぶ濡れで声を追いかける。
――こっち。
声が目の前まで近くなった気がする。
私は懸命に手足を動かす。
――こっち。
絶えず私は泳ぐ。
――こっち。
声が聞こえる。
――ここ。
不意にハタと気がついて動きを止めた。景色は相変わらず暗闇のままだが、微かに何かの気配がする。
鼻先を掠めるような見えない空気の流れを感じ、私は必死に目を凝らした。
意識を集中させて気配を追う。
――…こっち。
あの声がした。私はゆっくりと視線を降ろす。
私の足首を掴む青白い手が、波の動きに合わせて揺らいでいた。
――こっちだよ。
白く浮かび上がる2つの目が、底から私を見上げていた。