ざわめきが聞こえる。
名前を呼ぶ声がする。
――こっち。
招く声。
――こっち。
どこだ。
――こっちへ来て。
誰だ。私を呼ぶのは。
――こっちへ来て。
どこにいる。
――こっち。
見えない。姿が見えない。
何も見えない。
あるのはただ一面の闇と白い波だけだ。
――こっちへ来て。
だめだ。どうやって行けばいい?
――こっち。
呼ばれているのは分かっている。だがそっちまでの行き方が分からない。
――こっちだよ。
教えてくれ。どうすればいい。
君はどこにいる。
――こっち。
どっちへ進めばいい?
――こっち。
声のする方へ懸命に歩を進める。
声を逃さぬよう、しっかりと聞き耳を立てる。
――こっち。
足先から冷え始める。
波の感触が足首を包み、やがて脛から膝へ上がってくる。
――こっち。
呼ぶ声は心なしか大きくなる。見えないながらも近づいているようだ。
――こっち。
足が下から浮きかけ始める。腰から下は既に水の下に沈んだ。
――こっち。
尚も声は聞こえる。どっちへ進んでいるかも分からない漆黒の中を、急き立てるような波と飛沫の音と共に進む。
――こっち。
私はどこへ向かうのだろう。声の主はどこにいるのだろう。
自力で見つけ出すのは不可能なようだ。
ひたすら声に従って進む。
――こっち。
足がつかなくなってきたので平泳ぎで進む。
全身ずぶ濡れで声を追いかける。
――こっち。
声が目の前まで近くなった気がする。
私は懸命に手足を動かす。
――こっち。
絶えず私は泳ぐ。
――こっち。
声が聞こえる。
――ここ。
不意にハタと気がついて動きを止めた。景色は相変わらず暗闇のままだが、微かに何かの気配がする。
鼻先を掠めるような見えない空気の流れを感じ、私は必死に目を凝らした。
意識を集中させて気配を追う。
――…こっち。
あの声がした。私はゆっくりと視線を降ろす。
私の足首を掴む青白い手が、波の動きに合わせて揺らいでいた。
――こっちだよ。
白く浮かび上がる2つの目が、底から私を見上げていた。
8/15/2023, 2:37:14 PM