意識を手放す直前、瞼の隙間から見えたのは無色の世界だった。
何があったかは覚えていない。瞬間的なショックで忘れてしまったのだろうか。目を覚ますと、視界は真っ暗闇に沈んでいた。手足は動かそうと思えば動かせそうだが、重い風邪をこじらせた時のように不自由だ。床はふかふかしていて絨毯のような感触。居場所も状況も分からない。
突如戸が開く音がした。襖の音だろうか?そのまま誰かに両手で持ち上げられる。
「僕の可愛いお人形さん。」
男の声がした。歳はまだ若い方か?私は声の主に抱かれ移動する。そうして再び別の場所に立たされると、真っ暗な視界のまま服を脱がされた。いかがわしいことでもされるのだろうか…。たちまち嫌な予感がしたが、それはすぐに新しい布生地が肌を包む感触とともに打ち消された。少しサイズが大きいようで、だぶつくような重さがある。布の擦れる音が微かに聞こえる。胸のあたりの締め付けと、袖口がやたらに大きいところからして、どうやら着物を着せられているようだ。着付けが終わると、またも抱き抱えられた先で今度は何かに座らせられる。大きな人の手が優しく頭を撫でてくる。背後で気配がする。2つの人の手が、慣れた手付きで私の髪を梳かしていた。髪は背中ほどまで伸びていたが、普段の私の髪はそこまで長くないはずだった。
ああ、今の私は文字通り人形になったのか。もしくは私の魂だけが人形に宿ったのか。どちらにしても、今の私は自分の意志で動くことは困難なようだ。
ふわりと和らいだ髪をそっと手に取り、スンスンと息を吸い込む音がする。匂いを嗅いでいるらしい。手は再度頭をひと撫ですると、私を抱き上げて胸に収めた。仄かに白檀の香りがする。男は大事そうに私を抱きながらどこかを静かに移動している。湿った冷気が頬を撫でる。風の匂いや草木のざわめき、野鳥の声が遠巻きに聞こえる。男が見ているであろう景色が目の前にあるのだろうが、いかんせん今の私の目は一筋の光も捉えることが出来ないのだ。
桜散る
どんなに華やかでも
散ったら動かない塵芥
地面に散らばる残骸が
つい今しがたまで動いて
呼吸していたことさえ疑わせるほど
呆気なく虚しい
生命が尊いと言われるのは
末路が可哀想なのが決まってるから
夢を見た。
見知らぬ場所で男に抱かれる夢だった。
男は身なりの良い紳士という感じの者で、私を人知れず可愛がっていた。私は彼の存在の温かさに惹かれ、身を寄せていた。
男の寝室と思しき部屋のベッドの上で、私は彼に愛された。そっと唇を吸われ、身体の柔らかな部分をなぞるように指を這わせる。私は始終無抵抗のまま、じわじわと込み上げるときめきと悦楽を噛み締めていた。私を見つめる男の目は優しい光に濡れ、頬を僅かに赤らめていた。
目が覚めるといつもの自室だった。既に日が高く昇った窓は陽光が漏れ入っていた。階下のリビングへ向かいテレビをつけると、連続殺人事件のニュースが飛び込んできた。犯人は未だ見つかっていないが、いくつか共通の目撃情報があった。なんとなく、私が夢で会った男に特徴が似ている気がした。
もちろんただの思い込みなのだろうが、得体の知れないざわめきが胸の奥に湧いては消えていた。
もしも夢の中の男が現実に存在する相手だったとしたら、その人がどんな人間であれ、私にはあの男と出会うときが遅かれ早かれ来るのだろうか。知らず知らずのうちに、彼は見えない何かに導かれるようにして、少しずつ私との距離を縮めているのかもしれない。
ここではない、どこかで息を潜めながら。
「親愛なる君へ」
親友が寮を出て行った朝、彼女は伝えそびれた言葉を手紙に記した。
「一番大切な人としてずっと傍にいてくれてありがとう。新しい世界でも頑張ってね。」
忘れ得ぬ数々の記憶を一つ一つ思い返しながら、丁寧に言葉を綴っていく。ペンは表面を擦り、やがて皮膚の下の骨を探り当て、暗い骨の髄までたどり着く。
「いつかまた出会うとき、君はどんな人と巡り合ってるのかな―」
そう書きかけた文を、慌てて線で掻き消した。
手紙を折り、封筒に押し込んで封をした。これはこの後の用事のついでに出しに行こう。
届かぬ想いを何重にも包んで、光の見えない内臓の底へ落し込んだ。
神様へ
将来なんて知りたくありません
苦しみの少ない死であれば
綺麗なうちに与えてください
もしも本当にいるならば
一度でも願いを叶えてください