生きる上で無駄なことを省こうと思う。朝起きたら、ゲームする(←無駄)。朝ご飯を食べる。歯磨きをする。ニュースを見る(←無駄)。勉強する。おやつを食べる(←無駄)。ドラマを見る(←無駄)。スマホをいじる(←無駄)。7時になったら、文章を書く(←無駄)。晩飯を食べる。バラエティ番組を見る(無駄)。風呂に入って、歯磨きをして、寝る。
朝起きたら、朝ご飯を食べる。歯磨きをする。それから勉強する。晩飯を食べたら、風呂に入って、歯磨きをして、寝る。
……どうだろう。生きる上で意味がないことを省いた理想のタイムスケジュールは。これを見て、すごい!これこそ理想だと思った人はあまりいないと思う。これが理想だとしたらなんの為に生きているの?
ゲームするのだって、ニュースを見るのだって、おやつを食べるのだって、ドラマを見るのだって、スマホをいじるのだって、文章を書くのだって、意味がないこと?……なんの為に生きているの?
(今日は少し長くなった。ごめんなさい)
「あなたとわたし」。なぜ、運営は漢字で表さなかったのだろうか。「貴方と私」で良い気がするが……。
2分くらい考え、合点がいった。
「あなた」というのは、二通りの表し方がある。もう察している人も居るだろうか。「貴方」と「貴女」である。貴方というのは、相手に対して言う言葉。貴女というのは、その中でも女の人に対して言う言葉である(だから僕は二つの言葉を差別化する為に女の人には貴女、男の人には貴方と使い分けているのだが)。
つまり運営は「あなた」というのが貴方でも、貴女でも良いように平仮名にしたのではないか。「わたし」が平仮名なのはあなただけが平仮名だと可怪しいから(絶対に違うぶっちぎりの考察でした)。
雨は水だ。水というのは硬さが変わる(硬水軟水ってわけじゃなくて)。水は勢いがあれば硬くなり、弱ければ柔らかくなる(まぁ、僕は物理学者でもなんでもないから、これが正しいのか分からないけど)。
つまり、「柔らかい雨」というのは小雨であるということを予想する。……小雨の時、傘を差すだろうか(こんな話題しか思い浮かばない)。僕は差す。ちょっとでも濡れるのが嫌だから。ただ、何処か、ヨーロッパの国(イギリスだったかな)は小雨では傘を差さないそうだ(勿論、一概にそう、とはいえない)。雨が多いから、少しの雨で傘を差していたらきりがないらしい。
今までヨーロッパの国というのは小綺麗な装いで街を闊歩しているようなイメージだったので、意外だなあと感心した覚えがある(以上、不確実な豆知識でした)。
光というのは辺りを明るく照らすものである。
「もの」なのだ。実際、ブラインドの隙間から差す光は目に見える。ただ、僕は光=もの、と感じることが難しい。光というのが、どこか遠くの楽園にでも住んでいる妖精のような、そんな感じがしてならない。だから、一筋だろうが、大量だろうが、光というものを身近に感じられないのだ。本当は今もスマホの光を見ているというのに。
光がこの世に存在しなければ、モノを見ることができない。これを闇という。暗闇のなか、心細いなか、一筋でも光が差してくれたなら、どれほど心強いだろう。その一筋の光が見えない時、誰かがその代わりになってくれたら。そんな光に僕は、貴方は、成ることができるだろうか。
哀愁……どことなく漂う、しみじみと物悲しい感じ。
哀愁を誘うのだから、対象物に対して哀愁を感じているのだろう。貴方は思いつくだろうか。僕は中々思いつかないので、1分くらい悩んだ末に僕を哀愁へと誘う物はないという結論に至った。はっきりとした理由が分からないのに哀しくなることなんてそうそうない。大正にでも行けば哀愁へと誘われるだろうか。とてもそんな気がしない。
ここで気付く。理由がない訳ではなく、分からないのだ。それなら、あるかも。また1分悩む。……幼い頃。まだ、隣人と遊んで、楽しかった頃。
哀愁が漂うのは、思い出と結びつけられるからだ、と僕は思う。その思い出に未練があるからだ。そして、それを思い出す度、哀しくなる。