もう嫌だ。これで2回目だ。うわぁ~ん!2回、ここに梅雨がテーマの作文を書いた。さすがに3回目を書く根気はない。
僕の心は梅雨と同じ。雨模様。
無垢。言葉自体は知っている。意味があやふやだったので、国語辞典で調べてみた。
「けがれのないこと。」
要するに、何にも染まっていない、純粋な状態ということか。歯垢(歯の汚れね)の「垢」が無いのだから、ある程度、字面で予測できる。
僕は純粋だ。……と言い切れるだろうか。純粋な人間など、いるだろうか。否。
人は誰もが汚い部分を持っている。無垢な人間などいない。どれだけ完璧に見える人間でもだ。その人間が完璧に見えるのは、多分、汚い部分を隠すのが上手い。どれだけ汚れていようと、白く塗りつぶせる人間。卑しく見える人間と完璧に見える人間の違いはそれだけだと思う。白く塗りつぶせる技術は大切だし、汚い部分を見せろというのでもない。ただ、少しくらい着色したほうが愛せるということでもある。
明日は、中間テストがある。国語のテストで出る(であろう)長田弘さんの「はじめに…」という詩がある。
星があった。光があった。
空があり、深い闇があった。
終わりなきものがあった。
水、そして、岩があり、
見えないもの、大気があった。
ここで言う「終わりなきもの」とは、無限に広がっていく世界―。例えば、宇宙、例えば、心の豊かさ、、、だと思う。旅とは少し違うと思われるかもしれないが、勿論、挑戦も終わらない。終わってはならない。挑戦することが生きるうえでの大義の一つなのだから、欠けてしまうと、意思を持てなくなる。挑戦も旅だ。終わりの見えない旅。終わりが見えないからこそ僕たちは貪欲に挑戦を求め続ける。終わりのない世界。終わりのない可能性を求め続けるのだ。
この詩には、続きがある。ぜひとも、調べて、読んでほしいと思う(名前を使ったのだから、これくらいの宣伝はしないと)。
ごめんなさい。
この言葉を口に出して“心から”伝えた人は何人いるだろう。幼い頃、いたずらをして「ごめんなさい」。学校で忘れ物をして「ごめんなさい」。
これは沢山の人が言ったことがあるだろう。ただ、それは、心から発した言葉だろうか。オモテヅラだけの物ではないだろうか。本当に反省していただろうか。
「ごめんなさい」この中身を開いたら、「別にこれくらいよくない?」「こいつ、説教垂れやがって。」なんて物が出てくるかもしれない。ただ、どう思っていようが(たとえ、それが嘘でも)、「ごめんなさい」は大切だと思う。
僕はあと3,4年で成人する。そしたら、何かしらの仕事に就く。もう、成人になった以上、「大人に責任を転嫁する」ということが出来なくなる。なぜなら、自分が大人だから。自分の責任は自分で背負う。失敗したら、首が飛ぶ。ごめんなさいでは済まされない。
「ごめんなさい」を本心から言えるのは、今のうちなのだ。
僕は小学4年生の頃、「1年間半袖チャレンジ」と題し、進級の4月からずっと半袖だった(そんなヤツ、クラスに1人はいるよね)。そのチャレンジが成功したかどうか。……結果は、成功か失敗かでいえば失敗だろう。というか、大失敗だった。その年の12月、僕は入院した。心臓の病気らしい(詳しくは教えられなかった)。毎日のように39度の熱が出て、そして何より、暇だった。僕は恨んだ。誰をか。「1年間半袖チャレンジ」の考案者をだ(つまり、僕だ)。
退院したのは2,3ヶ月後。院内に何が、どこにあるか把握した頃だった。
僕は今、中学3年生だ。これを読んでいるのは僕より年上の方が多いかもしれない。ただ、僕と同年代、もしくは年下の方もいるだろう。全ての方に言いたい。
余計な事は、しない方がいい