「…すき」
息が止まった。
心臓がばくん、と音を立てる。それは心地よいものではない。
天邪鬼な恋人を抱きしめる両腕が冷えていく。
いつもなら、こうやって抱きしめてキスを落として「すき」を言うと必ず「きらい」が帰ってきた。
天邪鬼なそいつだから、きらいはすきの裏返しだと分かってたし、少し照れながら「きらい」を伝えてくるから、それでそれだけで幸せだった。
こいつのことは言葉はぜんぶ裏返しで、そこも含めてぜんぶぜんぶすきだ。
なのに、今こいつは…
「俺のこと、きらいになったの…?」
「……はあ?」
俺を払い除けるようにして、俺の腕から逃げたそいつ。
…ああ、よかった。これはいつも通り。
「なんで?なんできらいになった?さすがに毎回毎回うざかった?…ごめん。謝るし、もううざいと思われるようなことしない。嫌なとこぜんぶ直すから」
いつもの癖で、きみに触れようとしていて、はっと手を引っ込める。
…これだから、嫌われたんだろう。
俺がこいつにべたべたするのを嫌がってるのは、嬉しいの照れ隠しだと勝手に解釈していた。
本当に嫌がってるときも、あるよな、そりゃ。
…なに、やってんだろ。
「別れたいって思ってるほど、俺のこときらい?」
「……はあっ!?」
…え、なにその反応。
俺がそう出ると思っていなかったときの反応だ。
「お前っ、お前さあ…!あーもうざけんな!人が折角素直になってやったのに…!」
「……え」
素直に、って…?
もしかして、ツンデレってこと?
デレの部分がきて、俺はそれを誤解したと…?
「もう知らねっ。きらいだばか!」
「ね、お願い。もいっかいだけ、すきって言って」
「ぜってーやだ!つか離れろお前はっ」
「俺はめっちゃ好き。大好き。もう一生離してやんない」
「俺はっ、きらいだしっ。だいっきらいだしっ」
「うん、知ってる。かわいすぎか」
「……ほんとは、お前に嫌いって言いすぎてお前が俺に飽きてないか不安になって、すきってちゃんと言わなきゃと思って、それでだからっ。繋いどくためだけだしっ。別にお前のことなんかすきじゃねーしっ。馬鹿!」
「うん、かわいすぎだ」
─裏返し─ #41
「…ここからなら、私も飛べるかな」
少女は、そっと屋上から地面を見下ろした。
高い。暗い。怖い。
でも、少女はそれ以上に思ってしまうのだ。
ここから脱け出したい、と。
空を飛んでみたい、と。
少女は目をぎゅっとつむって屋上の縁から、一歩踏み出そうとした。
そのときだ。
「……え」
ぶわ、と風に頬を撫でられた。否、撫でられたなんてものではない。風でこちらの世界に押し戻されるようだ。
ふらついて後ろに手をついた少女は、つむっていた目をあけて、おどろく。
「……なに」
そこには、鳥のような人間のような生き物がいた。言ってみれば鳥人間、だろうか。
黒と白のグラデーションの翼。
よくわらかない布を無駄に使いすぎな衣装。
「あー、すいません。今ちょっと忙しくてですねー、死ぬのはまた今度にしてもらっていいっすか?」
鳥人間はノートをどこかからなのか取り出して忙しなくペンを走らせながら言った。
「あ、やば。次の仕事結構遠いじゃん。んじゃ、そゆことでー」
空いた口が塞がらない、とはこのことだろう。
鳥人間───命に関わる仕事っぽかったし、格好もぽいから、天使なのだろうか───は白と黒の羽を辺りに漂わせて、鳥のように暗い空の向こうに消えていった。
─鳥のように─ #40
消さなくてはいけないと、思った。
ちかくにいたら、依存して、ずるずると苦しむことになるって分かりきってた。
分かりきってたから、もっと早くさよならを言わなきゃいけなかったんだ。
「話って、なに?」
唇が震える。
これを言ったら、なにもなもぜんぶぜんぶ、おわり。
言わないで離れようと思った。離れるはずだった。
でも、自分から離れられないから。
離れなきゃいけない状況をつくるしかなくて。
それなのに、「好き」を言ったら嬉しそうに微笑むから
────…ああもう、離れられないじゃん。
─さよならを言う前に─ #39
いつも薄暗いそれが、一段と暗い今日。
明日の心模様は晴れてほしい。
そんなことすら思うことができない。
─空模様─ #38
「なあ、もう終わりにしよう」
「…お前いなくなっても、俺生きていけると思ってんの」
「生きていけるだろ。こうやって会話するのも結構きちーんだなこれが」
「頑張れよ。俺、お前いなくなったら生き方分かんねーんだけど」
「んなことないって。大丈夫大丈夫」
「おっまえな」
「それに最近はあんま壊さないじゃん。ストレス減ってるんじゃね?荒れてるときなんか手に負えないほどだったのに。ま、この世界のなかなら一回出れば修繕されるからどれほど壊してもよかったけどね」
「…その世界がなかったら俺潰れんだけど」
「あ、この世界が消えたら現実で暴れないようにしろよ?前にいたんだな、現実とここの区別がつかなくなって、現実で大暴れした奴」
「俺もそうなるけど」
「あーじゃあ、一ヶ月に一回くらいは出てきてやるよ。こっちの住人も結構忙しくてね」
「そうしろ。つかもっと出てこい。そっちの鏡の世界はお前出てこないと、ただの鏡で入ろうとしても入れねーんだから」
あー時間あったらね、と青年が背を向けたとたん、幻想だというきらびやかな都会は消え、ぐるりと鏡が歪んだと思ったら、鏡の向こうにはなんの変哲もない自分の姿が写っていた。
─鏡─ #37