空の向こうに消えていきたい。
お前はいつの日か、そんなことを言った。
「…あ、うみさん」
消えそうな背中の隣に腰を下ろす。
無意識なのかぽろりと零れたらしい、何かを待っていたかのような、沈んだなかから水面にゆっくりと出てくるような、そんな声色に安心した。
すぐ目の前には透き通る青が広がっている、この岬。
空の向こうに行きたいと思えば簡単にできてしまう、この岬。
世界が通ずるのは、どうやらこの岬だけらしい。
「こんなに晴れてると自分が浮き出ちゃうから俺は曇りが好き、です。自分が霞んでうまく溶け込めるのって曇りだけじゃないですか。…って、何言いたいんだろ俺───…えっ、うみさん…?」
「眠い。ちょっと肩借りる」
「……ちょっとは俺のこういう話も聞いてくれればいいのに。どこまで自由人なんですかうみさん」
掴もうとしてもこの手をすり抜けていく温もりを引き寄せるようにして肩にからだを預けた。
泣いた跡があったから。
声が震えていたから。
話して楽になるんだったらそれでいい。けれど、話して、それが自分を余計に苦しめるくらいならなにも話さなくていい。
こいつが高校一年生。俺が大学生。
五歳の差でこんなにも変わるのだと思うとすごく不思議な感覚だった。
「お前はまだましな段階だろ。俺なんかお前に会う前が一番やばかった」
「…起きてた」
「空見上げるだろ?そのときの俺が無意識のうちに心に浮かべてたこと絶対当たんないから当ててみ?」
「…当てさせる気ないじゃないですか」
うみさん、というのはこいつが勝手につけた俺の呼び名だ。
俺はこいつの名前を知っているが、こいつは俺の名前を知らない。
「大雨になって、世界が吹き飛んじゃえばいいのに、とか」
「ふは、はずれ。俺が思ったのは、“この空を飛ぶための翼がないんだったら、空を降らせろ”」
「……ほえ」
ずり落ちそうになったからだを持ち直して、果てしなく続く青に目を細める。くらくらするほどの潔い青だった。
「で?さっきなんでお前は雨がいい、じゃなくて曇りが好き、って言ったの?」
「えっ、ちょ、普通にそこ戻るんですか。てかそれ聞いてたんですか。さっきの、意味分かんないんですけど、どういう」
「雨のほうが暗くて自分が目立たなくなるだろ。なんで?」
「えぇ…」
そのうち分かるよ。お前は。
最初は自殺するつもりでこの岬に来たのに、“うみさん”のせいで毎日ここに来て他愛もない話をして結局生きている。
大学生になってまたうまくいかなくなって、この岬に来たら“過去の自分”のせいで結局生きている。
すぐ分かるだろうよ。
「“雨に洗い流されて忘れてはいけない過去も綺麗に流されるのが怖い”、だろ?」
「…なんで、俺が言おうとしたこと分かったんですか」
「同じ、だからかな」
─空を見上げて心に浮かんだこと─ #4
終わりにしたかったんだ、何もかも。
死にたいのかと問われたら別に、と答えられる。
でも、生きたいか問われたら何も言えない。
繰り返した自傷行為は、ここに自分が生きているんだという証明だった。
痛みを感じることでしか生きているという実感を得られなかった。
自分がなんなのか、なんのために生まれてきたのか分からないまま無意識にも続けてしまう呼吸は、酷く気持ち悪い。
そうやってなんとなくで粗雑に使ってきた今日は。
息をする意味なんて見いだせず、無気力を創りながらこころのなかではずっと叫び続けていた。
この毎日を終わりにしたい。
すべてどこかへ投げつけて、行き場のない感情を吐き出したい。自分というかたちを感じたい。
こうじゃない。そうじゃない。なんかちがう。
毎日がその連続だ。
つまらない。気持ち悪い。終わりを告げたい。
たとえば。
何も持っていない、ひとりの人間が。
誰にも必要とされていない、ひとりの人間が。
今消えたところで変わらずに世界は回り続けるし、いなくなったことに誰も気付かない。
だったらいっそ、終わりにしてしまおうか。
毎日を粗雑に費やすのは、終わりにしよう。
俺はすうっと息を吸い込んで、まだ見えない明日という名の今日へ一歩踏み出すのだった。
─終わりにしよう─ #3
〔手を取り合って生きていくことが大切だと僕は思います。
僕たちは手を取り合うことで生きています。誰もがひとりでは生きていけないのです。温もりがほしいときもあります。生きているから泣きたいときだって笑いたいときだってあります。僕らは手を取り合うことで……〕
そこまで読んで耐えられなくなり、天井を仰いだ。
……そういえば、そういう子どもだった。
そういう綺麗事で塗り固めた文章を夏休みの最終日に書いて、秋ごろになったら入賞したという通知が先生から必ず来ていた。
「…くだらな」
書いた当時は満足していたんだろう。本当にそう思っていたんだろう。
だが、今になってみると、呼んでいるこっちが吐き気がしてくるような綺麗事の塊だ。
折り目がついている原稿用紙を乱暴に閉じてもとあったところより深い場所に隠した。
手を取り合えば寂しくない。
手を取り合えば笑いあえる。
手を取り合えばひとりより、ずっといい。
じゃあ、軽蔑と侮蔑で心が冷えていくこの現象はなんだ。
分かっている。
多分俺は他人と手を取り合うことを、生きることを、諦めているのだ。
人の温もりなんぞに疑いしか持てない。その魂胆はなんだ。俺に何を求める。近寄るな。そんなことしか考えられない。
そうは思ってもその本心を他人に見せるわけがない。
それは、誰しもに当てはまることなのだろう。
そうして、俺らは完璧な仮面で今日も手を取り合う。こころのなかは軽蔑と侮蔑で冷えきったまま。
─手を取り合って─ #2
いつからだっただろう。
虚像の自分を必死に守って、
優越感に浸ることに疲れてきたのは。
ちがう。ちがう。
そうではない。
こころが満たされないと叫んでいる。
そんなものがほしいのではない。
…あれ、俺、なにがほしかったんだっけ。
なんのために無意味な呼吸を繰り返しているんだっけ。
死にたいわけでも、生きたいわけでもない。
ただ、すべてを投げて、投げつけて、
この満たされないこころを埋めたい。
生きるのに疲れてから、呼吸の感覚を忘れてから、
優越感に浸ること自体に意味を見いだせなくなっていった。
何も感じなくなり、むしろ、息苦しさだけが募っていった。
いつの間にこころが壊れたんだ。
うるさい。お前らは黙ってろ。
もともとあれは虚像だったんだよ。
それも、崩れないように必死につぎはぎで繕った虚像だ。
本物の俺はこれだ。こんな脆くて弱い普通の人間だ。
今だって優越感に浸っている人間はたくさんいるけれど、
所詮、つぎはぎだらけの着ぐるみを剥いだら普通の人間。
虚像を取り繕ったって結局は自分が疲れるだけ。
だったら、劣等生のほうがいい。
自分の本当の大きさは変わらないのだから。
無駄な背伸びはもうやめた。
…ああ、なんか。
劣等感に浸っていたほうが優越感。
─優越感 劣等感─ #1