のなめ

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9/16/2024, 1:19:54 PM

職場の机は窓向きで、ちょうど外の様子がよく見える配置になっている。
なので天気が悪くなってくると、なんとなく視界の彩度が低くなるので、
意識していなくてもすぐにわかる。

「アッ、なんか雨降りそうですね」
「エッ、ほんまか」

向かい合わせの席の上司が、嬉々として窓を振り返る。
台風が来るとはしゃぐ小学生みたいな人で、
ゴロゴロと不穏な音を立てる真っ黒な空をワクワクと見上げていた。

「空が泣いておるわァ!」

謎の悪役スイッチが入ったらしい。
太い笑い声をあげながら、意味もなくカーテンを開け閉めしている。落ち着いてほしい。
絡まれると面倒くさいので、いったん泳がせておく。

「貴様も見てみろ、人がゴミのようだ」

放流失敗。秒で絡まれた。
そしてどこかで聞いたことのあるセリフだ。
まぁ気分転換も兼ねて乗ってやるか、とため息をつく。
私は仕事の手を止めて席を立ち、窓辺の上司に並んだ。

「バルス」



さすがにひどくない?

さっきまでの威勢はどこへやら、若干しょんぼりした様子の上司。
こちらとしては世間様をバルスるつもりでなく、
無駄にテンションの高い身内を諌めるために放った呪文である。
結果、こうかはばつぐんだ!

そうして各自、粛々と業務に戻る。
天気が悪くなると、大体こういった小芝居が展開される。
なんの生産性も無く、意味も無く。
面倒くさいけど、まぁそれなりに楽しいルーティンだったりするのだ。

9/11/2024, 5:38:28 PM

今年の5月で時が止まっている壁掛けカレンダーがある。
それは別に、何か忘れられないことがあって捲れないとか、
5月の絵柄が好きだから飾っておきたいとか、
そういうイイ感じの理由があるわけではなくて、
ただシンプルにズボラである。

この文章を打ち込んでいる間にも、カレンダーは恨めしくこちらを見ている。
6〜8月のページが日の目を見ることはもはや無いだろう。
彼らの口惜しさたるや、測り知れない。

使わなければ買わなきゃいいのにと思うけれど、
毎年この時期に文具店で所狭しと並び始める、個性豊かなカレンダーを眺めるのが好きで、いつもやたら時間をかけて厳選している。

シンプルながら機能性に優れたもの
柔らかいタッチのイラストが描かれたもの
祝日にポップアップがついた個性的なもの

どれも中々に魅力的だ。今年はどれにしようかな。
脳内会議を楽しみながら、様々なカレンダーを見て回る。
「いや自分途中で使わんようになるやん」というド正論カットインはとりあえず無視した。

ちなみに今年はなんと日めくりを購入した。
小さなモチーフが描かれているデザインの可愛らしさにときめいてしまったのだが、
どう考えても捲る難易度が跳ね上がっている。大丈夫か。

来年の今頃、この日めくりは果たして今日の日付まで捲られているのだろうか。
乞うご期待。

8/18/2024, 5:24:29 PM

家の鏡で見る自分と、外の鏡で見る自分って、どうしてああも変わるものなのか。
大抵の場合、後者の方が残念度が増す。

あれ?こんなメイク薄かったっけ?
てか出かける前より、脚短くない?

この2点は外で鏡を見るたび思う。
逆になぜ外出前はそう思わないのか。

鏡を見ると欠点にばかり目がいくものだから、正直あまり鏡を見たくない。
…のだけれど、以前写真を撮る時、ろくに顔の状態を確認しないままに写ったら、
余計に「ヒェッ」という事態になったので、最近は渋々手鏡を持つようになった。

自分が見ないようにしたところで、周りには常に晒しているわけだから、早いとこ観念しな。
この先もこの顔で生きていくんだから。

家の鏡の前に立ち、最もらしく僕はキメ顔でそう言った。

8/17/2024, 8:10:19 PM

子どもの頃、片時も手放せなかったタオルやいつも一緒にいたぬいぐるみ、といった類のものがあったという人は、意外と多いのではないだろうか。

私の場合は布団のシーツ。赤ん坊時代からの付き合いである。
物心ついた時は既に紐のように細長くなっており、子どもの頃はいつでもずっと握りしめていた。
名前は「チューチャン」。顔を埋めて息を吸い込むと、何とも言えない安心する匂いが心を満たすのだ。

紐のようになっていたとはいえ、元シーツのためそこそこ長さと大きさはある。
そのため、外泊する際は本体からちょっぴり分身を切り取って持って行ったりもした。
行く先々で私が失くしてくるものだから、少しずつ、少しずつ、チューチャンは短くなっていった。

出会いから干支3回りくらいは経った今、
すっかりシーツとしての面影は残っておらず、一見すればただの紐であり、布もずいぶん古くなったけれど、変わらず私のそばにある。
学校を卒業した時、一人暮らしを始めた時、就職が決まった時、捨ててしまう機会は幾度もあれど、なんとなくできなかった。
赤ん坊の頃から世話になってきたからだろうか。もはやお守りのようなものかもしれない。

そうして年甲斐もなく、1日の終わりにチューチャンを通して大きく息を吸い込む。
おやすみ、また明日。