川柳えむ

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7/6/2025, 6:21:34 AM

 海の近くに家を買った。
 波の音がよく聞こえる。夜は、それが心地良く、深い眠りへと誘ってくれる。
 今夜も波音がする。
 窓の向こうには、漆黒に広がる深淵の海が見える。
 オイデ
 ベッドの上で耳を澄ませていると、ザー……ザザーッ……と寄せては返す波音に混じり、何か別の音が聴こえてきた。
 オイデ
 でも、それが何かはよくわからない。
 コチラヘ
 ただ、今日も深い眠りに就けそうだと感じた。


『波音に耳を澄ませて』

7/5/2025, 7:32:25 AM

 青一色。キャンバスには、ただそれだけが描かれていた。
 ――海? それとも空?
「風です」
 そう答えたのは、美術部で俺が教えている生徒だった。
 ――風? この青が?
「そうなのか。斬新だなぁ」
 一応、褒めたつもりだ。
 生徒は複雑そうな表情で微笑んだ。
「風って冷たいじゃないですか。……まるで、全ての悲しみを運んでくるみたいに」
 わかるような、わからないような。
 でも――。
「おまえのその独特な感性、嫌いじゃないぞ」
「また、微妙な褒め方して」
 今度は楽しそうに笑ってくれた。

 卒業してから暫くして、その生徒と連絡が取れなくなったと、仲の良かった子が教えてくれた。
 家の人ですら、あいつがどこへ行ったのかわからないようで、捜索願まで出されていた。
 あいつに、この世界は一体どう見えていたんだろうか?
 風が冷たく、悲しいものだと感じるおまえにとって、もしかしたらこの世界は、ずっと辛い場所だったのかもしれない。
 でも、キャンバスに向かって一心不乱に描き続けるおまえの後ろ姿は、本当にかっこよかったんだって、もしまた会えた時には伝えたい。
 今、目の前にある青一色のキャンバスを見て、そんなことを思う。


『青い風』

7/3/2025, 10:16:50 PM

 逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
 仕事へ行きたくない。
 いつものことではあるが、特に今日は。
 昨日、仕事でミスをした。本当に些細なミスだ。
 でも、自分はこの仕事に誇りを持ってやっていたし、十年以上ミスなくやってきたのだ。
 それなのに。
 周りは誰も責めていない。「珍しいね」くらいのことを言われる。
 それでも、悔しい。
 逃げたい。遠くへ行ってしまいたい。
 そして、誰とも連絡を取らず、一人で思い切り羽目を外したい。遊びたい。
 そんなことを思いながら。
 今日も満員電車に揺られ、仕事へ向かう。
 今度はミスをしないようにと。挽回しようと。ますます気を引き締めていこうと。そう、思い直す。


『遠くへ行きたい』

7/2/2025, 10:21:25 PM

 旅行先でクリスタルのネックレスを見つけた。
 とてもファンタジーを感じた。
 それを購入して、それはそれは大切にしていた。
 きっとこのクリスタルには力を使い果たした妖精が封印されているのだ。
 封印を解く為には、山奥に棲むドラゴンを倒す必要がある。
 しかし、私にはまだそれを倒す力はない……。
 だから、その時までこのクリスタルを大事に身に着けておくのだ。大切にクリスタルを――妖精を、護り続ける。

 という妄想を昔していたな。そして、実際にずっとそのネックレスを身に着けていた。
 はい、厨二病です。はい、黒歴史です。
 穴があったら入りたい……。いや、一生封印しておきたい。妖精がクリスタルに封印されていた妄想のように。


『クリスタル』

7/2/2025, 12:07:19 AM

 夏が好きだった。
 でも、最近は異常気象で、昔みたいな心地良い夏が来なかった。
 また、あの夏を体験したい。背の高いひまわり。学校のプール。冷えたスイカと麦茶。夜の花火大会。あの頃の、暑くなり過ぎない、ゆったりした夏。

 雑貨屋の前を通った。
 懐かしい匂いを感じて、立ち止まる。
 中に入ると、一角にある香水のコーナーが目に入った。
 香水の中に『夏の匂い』という名前のものがあった。
 テスターを手首に振りかけてみる。
 目を閉じると、あの頃の夏が帰ってきたようだった。
 懐かしい、この匂い……。

 しかし、ここはやけに寒い。冷房が効き過ぎている。いや、効き過ぎているなんてもんじゃない。寒い。寒過ぎる。
 さすがに耐えられなくなり、店に一言言おうかと目を開けた。

「どこだここ~~~~!?」

 目を開けると、辺りは雪、雪、雪。吹雪いている。そりゃ寒いわけだ。
 なぜか私は真冬の雪原に放り出されていた。

「勇者様が召喚されました!」

 声がした。よく見ると、吹雪の合間に何人かの人の姿が見えた。
 おい、あったかそうな格好してんなー。こちとら半袖なんですが?

「勇者様。ここの世界には夏がやって来なくなってしまいました。どうか夏を再び連れてきてください!」

 暖かそうな格好をした人が一方的に捲し立てる。
 魔王を倒せとかじゃないの!? 夏を連れてこいって……どうやって!?
 ここで今、夏に関係するものといえば――。
 私は手に握ったままの、香水のテスターを見た。
 ダメ元で――というか絶対に無駄だろうけど――香水を振り撒いた。
 吹雪が治まり、雲が晴れていく。太陽が顔を覗かせた。

「おぉ……夏がやって来た……!」
「いや、展開雑だな!!!!????」

 こうして、異世界の夏問題を解決した私は、代わりに冬を持って元の世界へと帰された。
 連日40度超えの暑過ぎる夏は、こうしてなくなった。代わりに、冷えた夏が続き、これはこれで異常気象で困るのだった……。


『夏の匂い』

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