花が咲き乱れる野原を見つけた。
子供の頃を思い出し、友達と二人で座り込んだ。そこから花を一輪摘む。
「昔、花占いってやったよね」
「やったやった。好き、嫌い……ってね。奇数の花びらを持つ花でやれば好き確実なのにね」
あの頃の思い出話に花を咲かせる。
「久しぶりにやってみようかな」
「え〜?」
「好き、嫌い、天国、地獄、大地獄、アイ、ラブ、ジェー、ケー、ど、れ、に、し、よ、う、か、な……」
「待って待って。いろいろ混ざってる。あと花びら多いな!」
『好き、嫌い、』
濡れたアスファルトから立ち上る湿気の混じった雨上がりの匂い。
濃い灰色の、重い雲の隙間から降りる天使の梯子。
雨宿りに一人入った四阿からそっと辺りの様子を窺う。
雨は止んだ。人通りは少ない。
もう帰れる。でも、まだ帰りたくないな。
せめてもう少し、涙の跡が渇くまで。
『雨の香り、涙の跡』
疲れた。
理不尽に耐えて耐えて耐えて。
ようやくそれが終わったかと思えば、また次の理不尽。
私の糸は常に張り詰めている。
たくさんの理不尽が重なって、その糸を引っ張って。
もう限界だって。
糸がプツンと切れた。
『糸』
婚約の話がとうとうやって来た。
伯爵家のお嬢様である私は、上級貴族との繋がりの為に、侯爵家の知りもしない息子と結婚する。
好きな人はいる。
でも、その相手と一緒になることは許されない。なぜなら、その相手は従者だから。身分が違い過ぎる。
しかも、ただの片想い。
どうしようもないことだとはわかっている。それでも、手を伸ばしたい。届かないって、わかってるのに。
「今日は婚約者との顔合わせです」
従者がいつものトーンでスケジュールを伝えてくる。
ねぇ。あなたは、なんとも思ってないの?
私が飛んでいってしまってもいいの?
悲しくなって下を向いた。
涙が零れそうなのを、必死に隠す。
「お嬢様?」
そんな私に向かって、不思議そうに声を掛けてきた。そして、こちらを覗き込もうとする。
嫌だ。見られたくない。こんな情けない顔。
彼が伸ばしてきたその腕を掴む。
「届かないのに」
「お嬢様?」
「あなたの心には、届かないって、わかっているのに。それでも……」
「お嬢様」
止められたって、止まらない。
だって、簡単に諦めたくない。何があっても諦めない。今までだってそうやって生きてきた。だから――。
「私は、あなたと」
「待ってください」
顔を上げると、真っ赤になった彼の顔がそこにあった。恥ずかしいのか、目を逸らしている。
そんな表情、今まで見たことがない。驚いて、私は動けなくなってしまった。
「……待ってください。そんなの、私の台詞ですよ……。あなたと私は身分が違い過ぎる。本当は、こんな気持ちを抱くことさえ許されない。届かない相手」
いつもは割と、従者だってことを忘れてるんじゃないかってくらい、遠慮なくいろんなことを言ってくるくせに。なんなら、従者らしくない行動だってあったこともあるのに。
でもやっぱり、ちゃんとその自覚はあったらしい。
「……いいんですか? 本当に」
「……いいの。本当に。あなたが、いいの」
彼がゆっくりと、しかし、力強く抱き締めてきた。
「こうなったら、もう、離しませんからね」
「絶対に離さないでよ」
喜びの涙が零れる。
届かないと思っていた想いが、ようやく、届いた。
『届かないのに』
ある日、起きたら、何もわからなくなっていた。
知らない部屋。知らない人達。
そこは病院だったらしく、医者が言うには、頭を打って一時的に記憶が失われてしまっている状態だということだった。
親らしき人達は、その事実に悲しみ、でも生きてて良かったと、大いに喜んでくれた。
記憶以外、生活に支障はないので自宅に戻った。もっとも、自宅かどうかも私にはわからないが。
数日後。母親に街を案内してもらった。
自分の通っていた小学校。駅前の商店街。小さい頃に遊んでいたという公園。
全部新鮮で、それなのに、どこか覚えがあった。
「そういえば、この公園の先に、青い屋根のお家があったよね?」
突然、記憶に蘇った。
母は驚いた様子でこちらを見る。
記憶の中の地図を頼りに、先を歩き出した。親が呼び止めるが、そんなものはお構い無しに。
そして、その場所に辿り着いた。そこは空き地だった。
「ここはずっと空き地よ」
後からやって来た母が言う。
なんだ。ただの記憶違い――いや、記憶なんてないはずなのだから、思い違いか。
「ここに青い屋根の家があったのは、あなたが生まれるよりももうずっと前よ。でも、事件があって……なんで青い屋根の家のことを知っているの?」
なぜかしっかりとこの家だけが記憶の中にある。
でも、母が言うことが真実だとすれば、じゃあ、この記憶は一体誰のものなの?
突然、辺りに冷たい空気が漂い始めた。
『記憶の地図』