もう時刻は深夜を回る。
ようやく家に着いた。急いでパソコンを起ち上げる。
明日も朝早くから出勤だとか、そんなことはどうでもいい。今日もまた、ネットの世界へと逃げ込む。
『ログインしました』
そうして生活の一部となっているオンラインゲームに接続する。
ゲームの世界では、既にいつものメンバーが準備を済ませて待っていた。
『よーっす』
『遅いよー』
『早く新しいダンジョン行くぞ』
今日も勇者は旅に出る。
本日の行き先は、アップデートで追加されたばかりの新しいダンジョン。
『勇者様。どうか助けてください』
人の姿をした魂のないグラフィックが、勇者に訴えかける。
勇者はクエストを受け、新しいダンジョンへと足を踏み入れた。
「さあ行こう!」
仲間達と冒険へ出る。
この世界では接続する一人一人、誰もが勇者だ。
小さい頃、そういえばこんなことを言っていたなと、ふと思い出した。
「サラリーマン? なにそれつまんねぇ。大きくなったら、俺、勇者になる!」
現実は、もちろん勇者になんてなれない。つまらないと思っていたそれになってしまっている。
でも、この世界なら、小さい頃憧れていた勇者に、自分もなれるのだ。だれでもなれてしまうのだ。
自分にとっては、こっちがリアル。だって、小さい頃の夢が叶ったのだから。望むものになれたこっちこそ、真実。
実際、これも全て現実だ。勇者と呼ばれる自分がいるのも現実。新しいダンジョンへ踏み込んだのも現実。現実の世界。――現実の世界の、一部。
しかし切断してしまえば、再び暗い世界へと引き戻されてしまう。
理解はしている。
勇者と呼んでくれるその世界は、所詮存在しない、データでしかないのだと。そこを現実と認めたくても、この暗い世界が、所謂皆の言うリアルなのだと、知っている。
それでも、夢が叶った世界を、現実だと思ってもいいだろう? ネットに接続して、この世界を楽しくプレイしている今も、現実なのだから。
――昔は、木の枝一本あればそれを剣代わりに、いつでも勇者になれた。
「さあ行こう!」
学校の裏山がダンジョンで、仲間を何人も引き連れて、日が暮れるまで冒険して。家に帰ってから「帰りが遅い!」と母に怒られていた。
今は、パソコン一つで、帰宅後に勇者になれる。
配布されたダンジョンで、同じく勇者な仲間達と、夜が更けても冒険して。でも、誰も怒る人もいなくて。
夢は、叶ったはずだ。
……違う。もうとっくに叶っていた。だって、あの頃は毎日が冒険で、毎日勇者になれていた。それならば、今だってあの頃と何も変わっていないのかもしれない。それとも全て狂ってしまっているのかも。
いやもう、そんなのはどうでもいいことで。
少なくともこの世界が終わるまでは、ずっと勇者で居続けられる。
明日もまた、パソコンの前で、勇者は戦うのだろう。
『さあ行こう』
雨上がり。
地面に水たまりができている。
そっと覗くと、水たまりに映る自分の姿越しに青空が見えた。綺麗な青だ。
その青の中に、見たこともない謎の形をした物体がはっきりと見えた。
慌てて後ろを振り返る。
空は雲一つない快晴。澄んでいて、謎の物体なんて、あるわけがない。
見間違いかと、再び水たまりを覗く。
……やっぱり、ある。
謎の物体が空にないなら、この水の中?
水たまりを蹴っ飛ばしてみる。
波紋が広がる。
中の物体も波紋に合わせてゆらゆらと揺れている。
じゃあやっぱり、空にあるのか?
でも、空を見ても、水に触れてみても、どちらにも実体はなかった。
気味が悪くなり、その場を立ち去ろうとした。
その時、謎の物体から、それはそれは巨大な手だけが出てきて、こちらに向かって左右に振り出した。
もう何も見ないように両目をぎゅっとつむると、俺はダッシュで逃げ出した。
『水たまりに映る空』
もう恋ではなくなってしまった。ましてや愛なんてものじゃない。
情も違う。そんなものは持ち合わせていない。
だから今は「欲」しかない。
君のしなやかな肢体に恋をした。
愛を持って君に接した。
もう欲しか残っていない。そろそろ頃合いなのだろう。
今日でお別れ。
じゃあ――、
「いただきます」
『恋か、愛か、それとも』
「それでは20歳になったらみんなでこのタイムカプセルを開けましょう」
小学生の頃、学校でそんなイベントがあった。
当時、一番仲良かった友達と、「じゃあ開ける日は一緒に来ようね」「約束だよ」。そんなやり取りをしたなぁと、思い返していた。
20歳、約束の日。
きっとみんな忘れているだろうな。そう思いながらも小学校へ向かった。
当時約束した友達は、あの後引っ越してしまって、連絡先がわからない。約束を果たすことはできなかった。
でも、もしかしたら来てくれるんじゃないかって、淡い期待を胸に抱いていた。
わくわくしながら向かったけど、誰一人そこにはいなかった。なんて、よくある話だ。
「……やっぱり、誰も来ないか」
約束の時間になっても、そこには自分しかいなかった。
みんな、今を生きているんだろう。あの頃のことなんて、忘れて。
「……もしかして、……ちゃん?」
突然名前を呼ばれて、振り返る。
そこには、あの頃の面影を持った、ずっと会いたかった友達の姿があった。
「みんな来なかったな~」
友達と二人、居酒屋からの帰り道。
少し愚痴を混ぜながら、でも、なんだか清々しい気持ちで歩いていく。
「でも、君に久しぶりに会えたから、僕はそれだけで嬉しいよ」
「そんなの、俺だって!」
他には誰も来なかった。だから、何を書いたかも覚えていない、あの頃埋めたタイムカプセルは、今も地面の下にある。
そのまま忘れ去られても構わない。
今まで会えなかった時間なんて、もうどうでもよかった。
俺達は今を生きている。
『約束だよ』
「何怒ってるんだよ」
雨の中、少し前を早足で歩く君の後ろ姿を追っている。
声をかけても君は振り返らない。
「なぁ! 待ってってば」
駆け足で君の横に並び、傘を持つ手を掴む。
それでようやくこちらを向いた。
その顔は、涙に濡れていた。
驚いて思わず手を離す。
君はまた向こうを向いてしまった。
「……だって、あの子の方がいいんでしょ……?」
肩を震わせながらそんなことを言い出した。
「なんでそうなる?」
隣の席の女子が教科書を忘れた。だから一緒に見ていた。それだけだ。
そりゃ少し話したし、ちょっと話があったから笑ったりもしたけど、それだからといってあの子がいいってことにはならない。
「私が恥ずかしがって、付き合うこと秘密にしてとか言ったのに……。だから、他に君のこと好きになっちゃう人がいたって、とられちゃったって、おかしくないもん……」
「そんなんじゃないって。大体、好きになってくれる子なんて、君以外いないよ」
「それにあの子の方がかわいいし……。こんなことで怒る私なんか、かわいくないもん……」
何を言っているのか。
持っていた傘を投げ捨て、君の前に回り込んだ。
そのまま両手で思い切り抱き締める。
「……あのなー、俺にとっては、君だけがかわいいの! かわいくないなんて有り得ない。一番かわいい!」
雨はいよいよ激しさを増し、君の持つ傘の向こうは水しぶきで白く濁っている。この傘の下は今、二人だけの世界だった。
だから、今なら誰にも見つからないから。
泣き止んだ君の頬に、そっと優しくキスをした。
『傘の中の秘密』