久しぶりにその場所を覗いてみた。
あぁ、まだちゃんとそこにいてくれたんだね。懐かしいなぁ。
心の中でそっと呟く。
そこは変わらない。何も変わらない、進まない。でも、それでもいい。まだそこにいてくれるだけで、それだけで構わない。そこだけ時が止まったように。
あ、あの人……。
似ている人を見かけた。別人かな? もしかして、本人かもしれない。どうかな。どっちだろう。
考えても仕方ない。
そっと見ているだけで、声をかけてみる勇気もないし。でも、もしもあなただったら。まだ元気でいてくれたなら、それだけで嬉しい。
……消えた?
そうか。もう随分長かったもんね。お疲れ様。
何もなくなった、存在すらなくなったその場所。そんなに期待はしていなかった。だって、まだ存在している方が奇跡だったから。
――でも、寂しい。
さよならすら告げずに、みんな消えてしまった。
さよならは言わないで。消えないで。置いていかないで。ずっとそこにいて。――などと都合の良いことは言えない。だっていつからか、ずっと遠くからあなた達のことを眺めるだけになってしまっていたから。自分だけの庭で、元気でいてくれたらなと願っていただけ。
気付けば、自分だけそこに取り残されてしまっている。少しだけ姿を変えて、でも、大きく形は変えないで。自分はまだここにいる。ここでずっと待っている。
静かな時を過ごしながら。いつか誰かが見つけてくれる。そんな時を待っている。自分だけの庭で、たまに誰かが顔を覗かせるのを待っている。
『さよならは言わないで』
間違えてセットした目覚ましに起こされた。
そこはまだ暗い闇の中。
瞼が重くて、まだ眠っていても大丈夫な時間だし、柔らかな布団に沈むように、再び眠りについた。
光と闇の狭間は、とても心地が良い。
そろそろ空は白んできて、きっともう少ししたら明るい朝がやって来るんだろう。
でもそんなことはさておいて、今はまだまどろみの中に。
『光と闇の狭間で』
この距離感が好きだった。
君と軽口を叩き合って、笑って、お互い気を遣わずに、自然体でいられる。この関係、この距離感が好きだった。
――本当は、もう少しだけ近付きたかった。
ここから一歩踏み出すのは怖くて、少し距離を間違えれば逆に遠ざかってしまいそうな気がした。
だからこそ、近付き過ぎず、遠過ぎず、丁度良いこの距離感でいたんだ。この状況に甘えていた。あなたの隣にいるのは私だと信じて疑わなかった。
「結婚するんだ」
あなたがはにかんでそう告げた。
青天の霹靂。
相手は、呼ばれたパーティーで知り合った娘らしい。
私は、距離感を間違えていたのだろうか。近付かなくても遠くへ行ってしまった。いや、近付かなかったからこそ遠くへ行ってしまった。
――あぁ、なんて嬉しそうな顔でその娘の話をするんだろうか。
涙であなたの姿が滲んで、あなたとの境界線がわからない。この距離は近いのか遠いのか。でも、今更どうにもならない。きっともうこの距離が縮まることはない。届かないと理解しながらも、手を伸ばした。
『距離』
泣かないで。と、君の泣き顔を見つめて願う。
悲しまないで。僕がいる。僕がここにいるよ。
その頬を流れる涙を拭ってあげる。肩を震わせながら泣く君を抱き締めてあげる。
触れたら壊れてしまうんじゃないかと、不安になる。その細い肩が、白い肌が、簡単に割れてしまう陶器のようで、本当は僕も触れるのが少し怖い。
それでも、君を慰めたい。君の心を理解してあげたい。優しく包んであげたい。
そうして、君に初めて触れた。
君は一層声を大きく上げた。
『泣かないで』
「見られたって?」
その言葉に同僚は静かに頷いた。
「馬鹿だな、あれだけ気を付けるよう言われてるのに。おかげでこっちの部署は大慌てだ」
ばたばたと走り回る仲間達。
別部署の同僚の尻拭いをこちらの部署がする羽目になってしまい、本当は自分も急いで働かなくてはいけないが、落ち込んでいそうなこの同僚をほっとくことも出来ず、とりあえず話を聞きに来た。
「まぁでもわかる。ようやく自分の出番がやってきて、楽しくなって、ちょっと気が抜けちまったんだよな。今年はあっちの部署がやけに長い期間働いてたから」
その部署の方を向いてみれば、この尻拭いを手伝ったりしていた。ありがたいが、お前達の出番じゃないのに。
「そもそもあいつらが長く出張ったりしなければこんなことにはなってなかったかもしれないのに……」
思わずぶつぶつと不満が漏れる。
それに、同僚がふるふると首を横に振った。そんな心優しい同僚を困らせるのが許せなかった。
「いや、たしかにお前も不注意だったが、俺はそもそも納得いってない。本来この時期にはお前のところの仕事もちゃんと終わって、俺達の仕事が始まってたはずだ。あっちの部署のせいで、人間達も不満に感じていることだろう」
そんなことを考えていたら一言文句を言わないと済まなくなってしまい、立ち上がる。
「やっぱり一言言ってやる」
そう言うと、同僚は俺を必死に止めようとした。
まぁそうだよな、おまえは優しいから止めるよな。
不意に、同僚が笑う。
何がおかいしのかと尋ねると「君は熱い人だね」と嬉しそうに微笑んだ。
「まるで夏みたい」
それ、あっちの部署じゃん。最悪の褒め言葉だな。
――はぁ、そろそろ俺も働くか。
「あとは俺達に任せとけ。秋はもう今年は終わり。ゆっくり休んでろ」
そう言い残し、仕事に戻る。ここからは俺達の出番。
さぁ、冬を始めよう。
『冬のはじまり』