お題『ふとした瞬間』
「あ! こら、コナツ!」
コナツはいたずらっこ。今日も今日とてお義母さんの靴下を片方だけくすねてケージに潜り込んでいった。
「……はぁ……」
お義母さんのため息、イコール、片方だけになった靴下の数。
コナツは片方の靴下だけがいいらしい。しかも、お義母さんのものだけ。こうして我が家では生き残ったもう片方の靴下がまるで、『俺、まだ靴下やれます!!』と言っているようにも思えるけれど……。
「コナツ、もうこっちはいいのね。ほんっっっとーに! いいのね?」
この問いかけに、いかにも、
『何に呆れられているのか、コナツ、ワカンナイ』
などと言っているかのごとく、キュルンとした瞳で飼い主——お義母さんを見上げた。
「もうしょうがない子ねぇ」
心底呆れたように、でも愛おしそうに、まだやれそうな靴下をお義母さんはゴミに出した。
「そういえばコハナちゃんは靴下をくすねたりしないの?」
お義母さんの疑問。
「そういえばそういう話は聞かないですね。コハナちゃんが来たら聞いてみます」
と言っても直接コハナちゃんに聞くわけにもいかないので、おさんぽサブリーダー真二くんに聞くことにした。
「コハナはそんなことしないですね」
「そうなんだ」
コハナちゃんの茶目っけエピソードを期待していた私の出鼻は挫かれた。
「多分、そんなにいたずらっ子だったら、盲導犬なんて勤まらないんじゃないかな。たしか、適性がないと訓練さえしてもらえないって聞いたことがありますよ」
へぇー。と思って浮かんできた疑問。
「それじゃあ、適性がある子をヘッドハンティングするの?」
真二くんが
「あくまでも俺が知ってる範囲の話で」
と、前置きをして口を開いた。
「パピーウォーカーといわれる育ての親の元で愛情たっぷりに育って、その中から適性のある子を選ぶんだそうですよ」
へぇーへぇー。そしてさらなる疑問。
「それじゃあ、盲導犬に選ばれなかった子は?」
「訓練されて介助犬になったり、一般家庭で愛されて飼われる子もいるって聞きます」
へぇーへぇーへぇー。
「ということは、コハナちゃんってもしかしてエリート?」
「ま、まぁ、そうっすかね?」
なんで真二くんが照れるの!?
そのコハナちゃんは我が家のいたずら娘の歩調に合わせてお散歩してくれている。時々リードを持っている私の腕を持って行こうとするけれど、その度にコハナちゃんが甘噛みでたしなめた。
その側を歩いている皐月は、早く公園で二匹と遊びたくてウズウズしているらしい。ソワソワとスキップしている。
しかし、目を離した、そのふとした瞬間。
あっ、コケた!
「う、うぇ……」
泣く? 泣いちゃう?
でもこういうときはコハナちゃんの出番。皐月の頬をペロリと舐めた。
うん。慰められてにっこり笑った我が家の長女と、無駄吠えしている次女はエリートになることはなさそうだねー。だから、うちで愛情たっぷりに育てることにしよう。
お題『どんなに離れていても』
「さつきー! ただいまー!!」
半月ぶりに浩介さんが帰ってきた。
「おとーさん、おかえりなさい!」
ひと月前まで、皐月は自分から浩介さんに抱きついてほっぺにチューをするという熱烈なファンサをしていた。
しかし浩介さんはそのファンサの代わり、今回は別のものを浴びたのだ。
「おとうさん、あのね、コハナちゃんとね、みずあそびしたの。コハナちゃん、ぶるぶるしたから、おみずがぶわあーって」
浩介さんは『ぶるぶるした』を、てっきりタオルを『ぶんぶん振り回した』ということだと思い込んでいた。
近所に引っ越してきた白石コハナちゃんというお友だちができたと思っているらしい。父としては親離れの階段を一歩上ったかと感慨に耽っているらしく、寂しさを滲ませつつも「皐月も大きくなったなぁ」と呟いている。
面白かったので私は勘違いさせたままにしておいた。
翌日。
「おとうさん、あのね、これからコハナちゃんとおさんぽいってくる」
玄関で靴を履き、いそいそと出かけようとする皐月を見て浩介さんが、
「七海、皐月がお友だちとふたりだけで遊びに行こうとしてるんだけど」
「ふたりじゃないもん! コハナちゃんといっしょに、おさんぽりーだーもくるんだよ!」
元気よくハキハキ喋る皐月に、浩介さんはまたもや勝手に納得したようだ。
「最近は物騒だから、そういうシステムもできたのか」
そんなことを呟いている浩介さんのことは目にも入っていないらしい。
「あ! コハナちゃんだ!」
皐月にはコハナちゃんセンサーでもついているのだろうか? 私にはコハナちゃんたちがやって来たのが絶対分からない。
「コハナちゃん、コハナちゃん」
玄関のドアをガチャガチャさせている音がする。
洗い物の手を止めるのも面倒だし、何よりハサミレベルで使いようのあるマイハズバンドが玄関にいる。
「浩介さん、ごめん! 鍵、開けてあげて!!」
「分かった分かった、今開けるから……」
ガチャリ、という音の後、さつきの「コハナちゃん! あーそーぼ!」という元気な声が聞こえてきた。それからコハナちゃんの、これまた元気な「ワンッ」という声も。
「……犬!?」
驚いているらしい浩介さんのひっくり返った声に肩を震わせていると、昌隆くんの、
「こ……こんにち……は……?」
これまた困惑しているらしい声が聞こえてきたので私は堪えきれずに笑いを吹き出してしまった。
「七海、人が悪いぞ!!」
「ごめんごめんって、あれ、どこに行くの?」
「俺も散歩だ!!」
臍を曲げた男とは厄介なものだ。でも出かけるならついでだ。
「明日のパンが足りないから、6枚切りをひとつ買ってきて!」
返事もせずに出かけて行ったけれど、浩介さんのことだから律儀に買ってくるだろう。
しかし、今回ばかりは予想の斜め上を行っていた。
「ただいまー」
「おとーさん、おかえりなさい! ……おとーさん、なにそれ?」
皐月に出遅れること半歩、戸惑っているのは皐月だけではない。私より出遅れること一歩、お義母さんも戸惑っている。
浩介さんはショートケーキの箱の、ふた回りほど大きな箱を片手に持ち、もう片方の手にはホームセンターの買い物袋。
箱からカサカサという音が聞こえてきたかと思うと、ワンッ! という元気な声が聞こえてきた。
「浩介! どういうつもり!?」
私が言うよりも早くお義母さんがキレた。
「皐月の誕生日と、母さんへの母の日プレゼント」
「何言ってんの! あんたはまたあっちに行くから関係ないかもしれないけど、世話をするのは七海さんか私でしょうが!!」
「んなこと言ったって、なぁ」
荷物を置いた浩介さんがそそくさと箱を開けると中からミニチュアダックスフントの、これまた小さいのが現れた。
浩介さんはその子を抱っこすると皐月に向かって、
「ハジメマシテコンバンハ、コハナデス!」
とアテレコしてみせる。
私がその悪ふざけにブチ切れるより早く、皐月がギャン泣きした。
「そのこはコハナちゃんじゃないもん! おとーさんきらい!!」
この「きらい!!」が、相当堪えたらしい。浩介さんはミニチュアダックスフントの赤ちゃんもそのままに、早々と寝室に引きこもった。
「ったく。どうしようかねえ。んー」
お義母さんは小さきいのちを抱き上げると目線を合わせた。すると、お義母さんの鼻先をペロリ。
「……決めた。私、この子のお母さんになる」
「はあ!?」
ひっくり返った私の声など耳に届いていないらしい。
「お前は今から佐々山コナツちゃんよ」
すると、コナツちゃんと呼ばれたその子はワンッと、ひときわ元気よく吠えた。
「浩介さん、忘れ物ない?」
「んー……多分」
すっかり毒気を抜かれている。こんなで仕事になるだろうか?
一抹の不安を抱きながら見送ろうとしたら、皐月とコナツが玄関までやってきた。
「おとーさん、あのね、さっちゃん……やっぱなんでもない」
「なんでもないかー、そっかー……」
見送りに来た皐月に何というか態度をするか?
しかし皐月も皐月だ。何か腹に抱えているらしい。
「そんな態度だと、思っていることは伝わらないよ。ほら、早くしないとお父さん、もう行っちゃうよ?」
「えー、でも……」
この後に及んで体をくねらせて照れている。
「ほら、お母さんに言ってごらん」
「んー……」
耳元でゴニョゴニョと伝えられたメッセージ。
「これ、お父さんに伝えるよ。いい?」
すると体をくねらせること約5秒。動きを止めた皐月は大きく頷いた。
「浩介さん! 皐月から伝言。ほら耳を貸しなさい」
土気色の頬を寄せてきたので、その耳に吹き込んだ。するとみるみるうちに元気になり、
「皐月、お父さん頑張って働いてくるよ! 七海もワンコも元気でな!」
と、カタチにもなっていない敬礼をする。
「ワンコじゃなくて、コナツですー!」
私はコナツを抱き上げると腹話術で返した。
「浩介。あんた、ちゃんとしないと皐月にもコナツにも忘れられるわよ!」
お義母さんに発破をかけられた浩介さんは「うぃーす」と肩を竦めてみせた。
「それじゃみんな、行ってきます!」
さわやかな笑顔で出かけていった浩介さん。
彼への魔法の呪文は皐月からの伝言でした。
「おとーさん、ほんとはだいすき」
お題『「こっちに恋」「愛に来て」』
皐月はコハナちゃんにご執心。
コハナちゃんとお散歩に行くときは必ず隣に並び立って歩く。
おさんぽリーダー(家庭内でそう呼ばれているらしい長男くん)で大学4年生の昌隆くんが、
「危ないから僕の隣を歩こう。ね?」
と言っても頑として首を振る。
皐月の話をよくよく聞くと、
「だってね、さっちゃん、コハナちゃのことだぁいすき。だからね、ずっと、ずぅっと、いっしょにいたいの」
と言ってキャッと恥ずかしそうにスカートで顔を隠した。パンツが丸見えの方がよほど恥ずかしいと思うんだけど。
まぁ、そういうわけでお散歩の時間は1秒すらも惜しんでそばに居たいらしい。
ある日、おさんぽサブリーダー(家庭内でそう呼ばれているらしい次男)で大学1年生の真二くんが散歩を担当をした時のこと。
「ごめん、さっちゃん、七海さん。このあとバイトがあるから早く行かなきゃいけなくって」
皐月は真二くんの早口な内容がよく分からなかったらしい。しかし、コハナちゃんは途中で伏せをして動かなくなってしまった。
「こらっ、コハナ、帰るぞ! おいコハナ!」
しかしコハナちゃんは一向に動く気配はない。そんなコハナちゃんの頭を撫でながら皐月は、
「コハナちゃん、コハナちゃん、さっちゃんもコハナちゃんがだあいすき。だからね。だから、ずーっと、いっしょに、いようね」
とずっと言っていたし、コハナちゃんも嬉し恥ずかしそうに、きゅーん、と鳴いていた。
このひとりと一匹は、愛し合う恋人同士にしかもう見えないのであった……。
蜜月の恋人同士(?)の皐月とコハナちゃん。
ある日、
「七海さん。そういえば、いつもお迎えに来てもらってばっかりだねぇ。今度は白石さん(コハナちゃんのユーザーさん)のおうちまでお迎えに行ったら? ついでだからウェディングケーキでも作るか!」
そう言ってお義母さんはカラカラと笑った。
皐月はコハナちゃんと自分との結婚とを夢見ているのか、またスカートで顔を隠した。
いや、だからパンツが丸見えだってば。
お題『巡り逢い』
皐月が抱っこをぐずりだした。
両手にはスーパーで手に入れた激安食材たち。
「さっちゃん、ごめんね。もうちょっとだけあんよできるかな?」
本当に、家まで本当に50メートルほどなのだ。頼む、歩いてください!!
祈るような気持ちで皐月に
「ほら、あんよがじょうず! あんよがじょうず!」
と言っていた時だった。
そこに颯爽と現れたのが、夕陽すら眩しく弾くゴールデンレトリバー。彼なのか彼女なのかはわからないけれど、その犬はお仕事中らしくハーネスをつけていた。
「わ……わぁ……わんわん!」
「さっちゃん、おっきなわんわんだねぇ……って。皐月!?」
あろうことか皐月はその犬に駆け寄って行ったのだ。
「わんわん……おっきいねぇ……」
その犬は皐月を無視しているかのごとく前を向いて歩いているのに、皐月はその後ろをついて歩いた。
奇しくもうちのある方向だ。そのまま歩いていって、お願い、お願い、そのままうちの前まで行って……お願い……。
私の願いが届いたのか、利用者さんとその犬は我が家の前までやってきた。
しかし、今度は嫌な予感がしてきた。
「ほら、さっちゃん。おうちに入ろうか」
すると皐月は「いーやぁぁぁ!!」と金切り声を上げる。
「わんわん! わんわん!!」
その犬との別れを受け入れられない皐月がとうとう泣き出してしまった。
利用者さんはまるで一部始終を知っているかのように、
「お嬢ちゃん。うちのわんわんが気に入ったかい?」
と話しかけてきた。
真っ直ぐに前を向いたままのおじさまに、サングラスを掛けている理由が眩しい夕陽を遮るためのものではないことがうかがえる。
その言葉に皐月は頷いて見せたが、そうなると私が間に立つより他なかった。
「さっちゃん、頷くだけじゃなくてきちんと声に出してお返事したほうがいいよ」
「うん。さっちゃん、わんわんだいすき!」
するとそのおじさまは微笑んだ。
「そうかい、嬉しいよ。今彼女はお仕事中だけど、このあとうちの息子が散歩に出るから。そのときにいっぱい遊んでやってくれるかい?」
皐月はぐずっていたのが嘘のような晴れ顔で「うんっ!」と元気にお返事をした。
それ以来、散歩の途中になると彼女はうちの前で皐月を待っていてくれるようになった。
お題「どこへ行こう」
4月も下旬ではある。
しかしそれにしても暑い。暑くて溶けそう。一体このお天気は何なの……もう夏なんじゃないの?
しかし3歳の皐月には陽射しなど関係ないらしい。早くお散歩に行きたくて、黄色い帽子を自分で被って玄関のドアノブをガチャガチャしている。
「はいはい。さっちゃん。日焼け止め塗ったらお外出ようね」
しかしもうお外に出る気満々なのか、日焼け止めを塗る時間など惜しいらしい。「キィーッ」と金切り声を上げて地団駄を踏み始めた。
どうしたもんか。そう思っていると紫蘇ジュースを片手にお義母さんが顔を出した。
「七海さん、さっちゃん、どしたの?」
「皐月がお散歩に行きたくてたまらないらしくって。日焼け止めを塗る時間も惜しいって」
目からほろほろ涙をこぼしている頬はぐにゃりと真っ赤に歪んでいる。
「あらー? さっちゃん、日焼け止めはイヤなの?」
すると、「うぅー」と首を横に振る。私はお義母さんと顔を見合わせた。
「そっか、さっちゃん。日焼け止めがイヤなんじゃなかったら、何がイヤなの?」
しゃがみ込み、皐月と目線を合わせたお義母さんに、さつきは「わんわん」と言ってドアを指差した。すると、ドアの向こうから、ワンッ、と大きな犬の鳴き声が。
「あぁ、そう。さっちゃんはワンワンに会いたかったのね」
頷く皐月の顔に笑顔が戻ってきた。
「それじゃぁ、そうね。わんわんにとりあえずご挨拶だけしよっか」
それからのことは、後で考えよう。日焼け止めは塗らないといけないとして。
うーん。今日はどこへ行こうかな?