にえ

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お題『どんなに離れていても』

「さつきー! ただいまー!!」
 半月ぶりに浩介さんが帰ってきた。
「おとーさん、おかえりなさい!」
 ひと月前まで、皐月は自分から浩介さんに抱きついてほっぺにチューをするという熱烈なファンサをしていた。
 しかし浩介さんはそのファンサの代わり、今回は別のものを浴びたのだ。
「おとうさん、あのね、コハナちゃんとね、みずあそびしたの。コハナちゃん、ぶるぶるしたから、おみずがぶわあーって」
 浩介さんは『ぶるぶるした』を、てっきりタオルを『ぶんぶん振り回した』ということだと思い込んでいた。
 近所に引っ越してきた白石コハナちゃんというお友だちができたと思っているらしい。父としては親離れの階段を一歩上ったかと感慨に耽っているらしく、寂しさを滲ませつつも「皐月も大きくなったなぁ」と呟いている。
 面白かったので私は勘違いさせたままにしておいた。

 翌日。
「おとうさん、あのね、これからコハナちゃんとおさんぽいってくる」
 玄関で靴を履き、いそいそと出かけようとする皐月を見て浩介さんが、
「七海、皐月がお友だちとふたりだけで遊びに行こうとしてるんだけど」
「ふたりじゃないもん! コハナちゃんといっしょに、おさんぽりーだーもくるんだよ!」
 元気よくハキハキ喋る皐月に、浩介さんはまたもや勝手に納得したようだ。
「最近は物騒だから、そういうシステムもできたのか」
 そんなことを呟いている浩介さんのことは目にも入っていないらしい。
「あ! コハナちゃんだ!」
 皐月にはコハナちゃんセンサーでもついているのだろうか? 私にはコハナちゃんたちがやって来たのが絶対分からない。
「コハナちゃん、コハナちゃん」
 玄関のドアをガチャガチャさせている音がする。
 洗い物の手を止めるのも面倒だし、何よりハサミレベルで使いようのあるマイハズバンドが玄関にいる。
「浩介さん、ごめん! 鍵、開けてあげて!!」
「分かった分かった、今開けるから……」
 ガチャリ、という音の後、さつきの「コハナちゃん! あーそーぼ!」という元気な声が聞こえてきた。それからコハナちゃんの、これまた元気な「ワンッ」という声も。
「……犬!?」
 驚いているらしい浩介さんのひっくり返った声に肩を震わせていると、昌隆くんの、
「こ……こんにち……は……?」
これまた困惑しているらしい声が聞こえてきたので私は堪えきれずに笑いを吹き出してしまった。

「七海、人が悪いぞ!!」
「ごめんごめんって、あれ、どこに行くの?」
「俺も散歩だ!!」
 臍を曲げた男とは厄介なものだ。でも出かけるならついでだ。
「明日のパンが足りないから、6枚切りをひとつ買ってきて!」
 返事もせずに出かけて行ったけれど、浩介さんのことだから律儀に買ってくるだろう。
 しかし、今回ばかりは予想の斜め上を行っていた。
「ただいまー」
「おとーさん、おかえりなさい! ……おとーさん、なにそれ?」
 皐月に出遅れること半歩、戸惑っているのは皐月だけではない。私より出遅れること一歩、お義母さんも戸惑っている。
 浩介さんはショートケーキの箱の、ふた回りほど大きな箱を片手に持ち、もう片方の手にはホームセンターの買い物袋。
 箱からカサカサという音が聞こえてきたかと思うと、ワンッ! という元気な声が聞こえてきた。
「浩介! どういうつもり!?」
 私が言うよりも早くお義母さんがキレた。
「皐月の誕生日と、母さんへの母の日プレゼント」
「何言ってんの! あんたはまたあっちに行くから関係ないかもしれないけど、世話をするのは七海さんか私でしょうが!!」
「んなこと言ったって、なぁ」
 荷物を置いた浩介さんがそそくさと箱を開けると中からミニチュアダックスフントの、これまた小さいのが現れた。
 浩介さんはその子を抱っこすると皐月に向かって、
「ハジメマシテコンバンハ、コハナデス!」
 とアテレコしてみせる。
 私がその悪ふざけにブチ切れるより早く、皐月がギャン泣きした。
「そのこはコハナちゃんじゃないもん! おとーさんきらい!!」
 この「きらい!!」が、相当堪えたらしい。浩介さんはミニチュアダックスフントの赤ちゃんもそのままに、早々と寝室に引きこもった。
「ったく。どうしようかねえ。んー」
 お義母さんは小さきいのちを抱き上げると目線を合わせた。すると、お義母さんの鼻先をペロリ。
「……決めた。私、この子のお母さんになる」
「はあ!?」
 ひっくり返った私の声など耳に届いていないらしい。
「お前は今から佐々山コナツちゃんよ」
 すると、コナツちゃんと呼ばれたその子はワンッと、ひときわ元気よく吠えた。

「浩介さん、忘れ物ない?」
「んー……多分」
 すっかり毒気を抜かれている。こんなで仕事になるだろうか?
 一抹の不安を抱きながら見送ろうとしたら、皐月とコナツが玄関までやってきた。
「おとーさん、あのね、さっちゃん……やっぱなんでもない」
「なんでもないかー、そっかー……」
 見送りに来た皐月に何というか態度をするか?
 しかし皐月も皐月だ。何か腹に抱えているらしい。
「そんな態度だと、思っていることは伝わらないよ。ほら、早くしないとお父さん、もう行っちゃうよ?」
「えー、でも……」
 この後に及んで体をくねらせて照れている。
「ほら、お母さんに言ってごらん」
「んー……」
 耳元でゴニョゴニョと伝えられたメッセージ。
「これ、お父さんに伝えるよ。いい?」
 すると体をくねらせること約5秒。動きを止めた皐月は大きく頷いた。
「浩介さん! 皐月から伝言。ほら耳を貸しなさい」
 土気色の頬を寄せてきたので、その耳に吹き込んだ。するとみるみるうちに元気になり、
「皐月、お父さん頑張って働いてくるよ! 七海もワンコも元気でな!」
と、カタチにもなっていない敬礼をする。
「ワンコじゃなくて、コナツですー!」
 私はコナツを抱き上げると腹話術で返した。
「浩介。あんた、ちゃんとしないと皐月にもコナツにも忘れられるわよ!」
 お義母さんに発破をかけられた浩介さんは「うぃーす」と肩を竦めてみせた。
「それじゃみんな、行ってきます!」
 さわやかな笑顔で出かけていった浩介さん。
 彼への魔法の呪文は皐月からの伝言でした。

「おとーさん、ほんとはだいすき」

4/26/2025, 11:22:51 AM