お題『ここではないどこか』
「あつーっ!」
主様が暑がっている。それも無理のない話で、連日のように今年の最高気温を更新している。俺たち執事はというと、いかに主様に涼しく過ごしていただくかに心を砕いていた。
「あ、そうです!」
俺の言葉に主様は小首を傾げた。その拍子に額に玉になって浮かんでいた汗が顔を伝っていった。
「こういうときは水浴びがいいかもしれません」
水浴び。その言葉に主様の顔が大輪のひまわりのように綻んだ。昨年初めて庭で水浴びをされた。そのときはとても喜んでいらっしゃったけれど、日焼け止めクリームが水に流れて、結局日焼けされたんだっけ。さて、今年はどうするか?
「お外は日差しも心配なので、お風呂にお水を張りますね」
大浴場をプールにしてしまおう。そう思い立ったが吉日、浴槽にかなりぬるめのお湯を張る。
「フェネス、全部お水にしないんだ……」
俺にくっついていらした主様は少しがっかりしたらしい。小さくため息をついている。
「冷水でお身体が冷えてしまうと大変ですからね。主様が風邪をひいたりお腹を壊したりするとみんなが心配します」
主様にそう言い聞かせながら水着へのお召し替えをお手伝いしていて、気がついた。水着が小さくなっているのだ。うーん、去年よりも7センチも身長が伸びているから当たり前ではあるんだけど……。
「水浴びは、また今度にしませんか?」
「えー! なんで!?」
遊ぶ気満々だった主様には申し訳ないのだけれど。
「今日にでもフルーレに新しい水着を作ってもらいましょう」
しかし、ご納得いただけないようだ。
「そう言っても、ここ、お風呂だからはだかでもいいわよね?」
そう言うと主様は気前よく(?)全部を脱ぎ捨てて浴槽に駆け込み、そのままバシャバシャとはしゃいでいる。
「ねぇねぇ、フェネスもいっしょに水あび、しよ!」
「な、ななな、何をおっしゃるのですか?」
「何でも何も、ひとりで水浴びしてもつまんない」
すると、奥のサウナ室からゆらりと人影が現れた。
「よぉ、主様。それにフェネス」
「ボスキ! いっしょに水あびしよ?」
くっくっ、と楽しそうに笑ったボスキは「仕方ねぇな」なんて言いながら主様のいる水風呂に身体を沈めていく。
「ボスキ!?」
「ん? フェネスか。もしかして俺はお邪魔だったか」
あぁ、なんてわざとらしいんだ!
結局主様はボスキと水風呂をひとしきり楽しまれて、その後、ふたりは木陰で仲良く昼寝を満喫していた……もしかしたらボスキのポジションは俺がいたかもしれないのに。
早くどこかに行ってくれないかな、そう思う程度にはボスキに嫉妬している俺なのであった。
お題『君と最後に会った日』
俺の日課は屋敷の大浴場の掃除から始まる。
そのときも浴槽を磨いていた。
「はぁ……主様とお嬢様も、早くお風呂に入れるようになれるといいなぁ」
出産を終えられて一週間も経たない主様はいまだ体力が回復しておらず、腕と足の清拭と手湯をしてさし上げるのが精一杯だったのだ。
磨き上げた浴槽を水で流しているときだった。転がるようにしてやって来た、真っ青な顔をしたアモンに、急いで主様の寝室に行くように言われた。アモンは主様の一大事だ、とも言っていた。
とても嫌な予感がした。食が進むどころかむしろ減っていく一方で、拭かせていただく手足もみるみるうにち痩せ細っていっていたのだ。
蛇口を止めると濡れた手足を拭くのももどかしく、既に出て行ったアモンの後を追いかけた。
部屋の入り口は開け放たれており、主様を執事たちが二重三重に囲んでいるのが見えた。
到着した俺に気がついたベリアンさんが、主様が俺にも会いたがっていると言っている。枕元では医療担当の執事・ルカスさんが主様の脈を取っているのが視界の端に入り、俺の頭から血の気が引いていく。
執事たちを掻き分けて主様の元に行き、床に膝を付いて主様に呼びかけた。
「俺です、フェネスです。主様、いかがなさいましたか?」
俺の声に主様は微笑みを浮かべる。
「……ごめんね……あの子を、お願い……」
「主様、主様、そんなことはおっしゃらないでください、お嬢様には主様が必要です」
しかし俺の声は届いたのかどうか。
ルカスさんがゆっくりと首を横に振った。
お題『繊細な花』
主様と俺はエスポワールの街にある美術館に来ている。以前主様が画集を広げて、実物をご覧になりたいとおっしゃっていた絵画が目的だ。
「すごい……近くで見ると絵の具がゴツゴツしているのね」
10歳にして初めての美術館だ。鑑賞の仕方は人それぞれではあるけれど、少しだけ助言を差し上げることにした。
「主様、近くで観るより少し離れた方が全体を楽しめますよ」
すると、どうだろうか。主様は、ごくごく小さなお声で「ひゃあ」と感動の声を上げた。
「すごい、フェネス。このお花の絵、本で見たもしゃの絵よりもずっとせん細だと思うの」
瞳をきらきらと輝かせながら一枚一枚を丁寧にご覧になっていく。
しかし、芸術鑑賞は自分が思う以上にエネルギーを使う。それは主様も例外ではなく、目的の絵画にたどり着く前にお腹がキュルリと鳴っているのが聞こえてきた。
「主様、ここの美術館にはカフェもございますよ。よろしければ少しご休憩されてはいかがでしょうか?」
俺の提案に主様の目はもっと輝きを放ち始めた。
最初の花の絵画を繊細だと感動していらしたけれど、芸術よりもまだまだ甘いものの方がお好きなご様子だ。
前の主様がいらした、あちらの世界で言うところの『花より団子』なのかもしれない。
お題『1年後』
ミヤジさんが開く、街の子どもを集めた勉強会に主様も参加することが、ここのところしばしばある。
屋敷の中の世界しか知らなかった主様だったけれど、勉強会初参加から一年後になるとずいぶんと社交性を身につけられた。ミヤジさんの話によると主様は街の子どもたちにも進んで挨拶をし、勉強も教えたり教えられたりし、休憩時間になるとふざけ合うこともあるそうだ。
主様は寝る前のひとときになると、勉強会での話を楽しそうにお話される。俺は相槌を打ちながら耳を傾け、時々『あの夜泣きの激しかった主様ももうこんなに成長なさったのか』と感慨に耽ることもある。
今日、ミヤジさんに誘われて俺も勉強会にお邪魔した。主様は俺なんかよりもとても人気者で、小さな子どもたちに読み書きを教えてほしいとせがまれる場面も見受けられた。
——さすがは俺の主様。俺が密かに感動していると、ひとりの少年が主様のことを呼び捨てで呼んだ。そのことについて俺が何かを感じるよりも早く、主様もその少年のことを呼び捨てにした。そしてそのまま談笑しだしたのだ。
「フェネスおにいちゃん、どうしたの?」
俺が絵本を読み聞かせてあげていた子どもたちの声で我に返り、「な、なんでもないよ」と言ってそのまま続けた。けれど、主様と少年の楽しそうな声が耳について離れなかった
「フェネス、どうかしたの?」
帰りの馬車の中で主様から俺に声をかけてきた。
「お腹でもいたいの?」
そう言われて初めて俺は自分でも驚くほど落ち込んでいるらしいことに気がついた。
「いえっ、何でもありません!」
その場は笑顔を作ったけれど、主様は心配そうに「屋敷についたらハーブティーをいれてあげるね」と気遣ってくださった。
まさか本当に主様に給仕をさせるわけにはいかない。コンサバトリーに主様をお連れしてから、俺はカモミールブレンドティーをご用意する。お茶菓子は街で買ってきたフィナンシェだ。
ワゴンを押して季節の花々が咲き乱れるコンサバトリーに入ると、主様はミヤジさんとお話をされていた。
「主様、名前を呼び捨てにしていいのは執事に対してだけの方がいいね」
「えー。だって◯◯だって私のことをなまえで呼んでるのに?」
あの少年の名前が出てきたので俺はその場で固まってしまう。
「これから学んでいくことになるけれど、人と人にはほどよい距離感が必要なんだよ」
主様は少し黙ってから「わからない」と言っている。
「きょり感なんて私、ぜんぜんわからない。それに、みんなとなかよくできる方が私は楽しい」
その言葉に苦笑いをしているミヤジさんが俺に気がついて、「フェネスくん」と声をかけてきた。
「すみません、遅くなりました」
俺はなるべくテキパキとした動作でお茶をサーブして、ティーポットをテーブルに置く。
主様がカップに口をつけるのを見届けたミヤジさんは、今度は俺に話を振ってきた。
「フェネスくんは主様が呼び捨てにされていてどう感じたかな?」
うーん……正直に言っていいのかな……。
「フェネス? 私もフェネスのお話が聞きたい」
はぁ……。俺は重い口を開いた。
「正直に言うと、少し面白くなかったというか……多分やきもちを妬いています」
するとミヤジさんが、珍しく口元を押さえて吹き出した。
「主様、分かってもらえたかな。人と人に適度な距離感がないと他の人はこう感じることもあるんだよ」
ミヤジさんと俺を見比べた主様だったけれど、やはりよく分からないらしく首を捻っている。
主様が俺のこの気持ちを理解するのにはしばらくかかりそうだ。
お題『子供の頃は』
現在9歳の主様が、さらに子供だった頃の話。
「主様」と呼べば満開に咲いたひまわりを思わせる笑顔ではしゃいでいらっしゃった。その様は屋敷中を明るくしていて、執事たちも喜んで主様中心の日々を送っていた。
だから、その誤りに気づくのが遅れた……というのは言い訳にしかならないかもしれない。
主様が喃語を卒業した頃、自分のことを「あるじさま」と言い出したのだ。
一人称が主様というのは、さすがにいけない気がした。
亡くなった前の主様は「✳︎✳︎✳︎」と名付けられていたこともあり、その日のうちに全執事に主様のことを「✳︎✳︎✳︎様」と呼ぶように申し送りがされた。
4歳の頃には一人称「✳︎✳︎✳︎さま」になり、最後の「様」を取るまでに約2年かかった。
今となっては自分の名前は「✳︎✳︎✳︎」だと理解されているし、一人称は「私」と発言されているし、自分のことを「主様」と呼ぶのは執事だけだということも理解なさっているが……。
……そんなこともあったなぁ、と思いながら俺は古い日記を閉じた。