お題『日常』
朝起きて真っ先にやることといえば、浴室清掃と入浴の用意。トレーニングを終えた他の執事たちに汗を流し、さっぱりしてもらうために欠かせない俺の日課だ。
その次に、主様を起こす。紅茶だけではお目覚めがイマイチのようなのでクッキーなどのちょっとした焼き菓子や、今の時分であればゼリーを添えている。お菓子の糖分で朝食までの時間つなぎの意味合いもある。
アーリーモーニングティーで少し目を覚ましていただいたところで衣装担当の執事・フルーレがやって来て主様はお召し替えを。
動きやすい服にお着替えされると軽いストレッチをなさる。主様はまだ9歳なので身体はとても柔らかい。だけど幼い頃から習慣づけておけば大人になってからでも欠かせないルーティンになるはず。それに主様は体操は大好きなようなので、よほど体調が悪くない限りは俺が何も口を出さなくても大丈夫のようだ。鼻歌交じりにイチ・ニ・サンとカウントしていらっしゃる。清掃担当(よくサボっているけど)の執事・ラムリと外で体操をしていることもある。
朝食前に、前日勉強したところの復習をする。間違えたところを見直しながら、分からないところはきちんと俺に確認してくださる。たくさんの知識を吸収していただくためのお役に立てて嬉しい。
朝食からはマナー担当の執事・ベリアンさんやミヤジさんに主様をお願いすることになる。
主様がマナーや勉強、楽器の演奏などをされているうちに俺は食事を済ませたり、書庫の本を片付けたりそのまま読み耽ったり……。
「……ス、ねえってば、フェネス!」
「わ! 主様、すみません。集中していました」
気がつけば窓の外は夕闇を纏っていた。
立ったまま読書をしていた俺に、椅子に座るようにと主様が椅子の座面をぽふぽふ叩いてみせる。求められるがままに座れば俺の膝の上に主様は腰をかけてくるので、読みかけの本は置いておいて記憶している児童書の中で季節感のあるものを選んで誦じる。契約している悪魔の力で一度読んだ本は全部記憶できるけど、それはこう言うときに役に立っている。
そして主様が夕食を摂られている間に俺は再びお風呂の用意をして、就寝される1時間ほど前に入浴していただく。ひとりでの入浴はまだ怖いとおっしゃるので、俺が背中を流したり洗髪のお手伝いをさせていただく。身の回りのことはひとりでもだいぶできるようになってきたけれど、耳の後ろを洗い残しやすいようだ。
おやすみまでの時間は、部屋の蝋燭を3本程度までに抑えて、いい夢を見ていただくために明るめの内容の本をまた誦じさせていただく。
主様が夢の世界に落ちていくのを見送ってから、俺は夕食を済ませる。
そして誰にも見つからないようにトレーニングをして、入浴。その後たまにウイスキーを飲んだりすることもある。
ほどよく疲れた身体を引きずるように、俺もまた眠りにつくのだった。
お題『好きな色』
主様が二歳だった折に、一度だけ、好きな色は何色ですか? とお尋ねしたことがある。そのときはくふくふ笑いながらこうおっしゃった。
「んーふふー♪ シー」
でも主様の色鉛筆の減り具合で、どの色がお気に入りなのかは大体の目安がついていた。
赤色がダントツで無くなっていく。
主様のスケッチブックはいつでも赤い丸がはみ出んばかりに描かれていて、それは赤い薔薇だと思っていた。屋敷のそこかしこに薔薇は飾られているから、てっきり。
赤い丸をたくさん描かれていた主様も、少しずつ人の姿に近いお絵描きをなさるようになり、その頃にはずいぶんお喋りも上手になられた。
赤い髪の下の左目には、黄色い輪っか。
これって、もしかして——
「主様、その絵の人物って、もしかして俺ですか?」
「うん、そう。ミヤジがね『すきなものをたくさんかきなさい』って」
主様の好きなものの中に俺なんかがいていいんだろうか……? そう思いながら二階の執事室のドアを開け、入ろうとして額をぶつけた。
「おい、フェネス! 大丈夫か?」
「うぅ、ごめんハウレス。大丈夫……」
「笑ってるけど、本当に大丈夫なのか?」
自分の意思とは無関係に、俺の口の端は釣り上がっていたようだった。
お題『あなたがいたから』
これは、前の主様とのお話。
臨月も間近となったある夜、俺と主様はキッチンに来ていた。
ホットミルクが飲みたいとおっしゃられたのでそのまま寝室でお待ちいただくつもりでいたら、私も行きたい、とおっしゃられたのだ。お待ちください、いやだ、足元が危険ですので、だって……。
最後には「だったらもういらない」と言い出してしまい、結局俺の方が折れた。
俺の腕に捕まっていただき、二階の寝室から一階に降りるまでは、おそらく俺の方が緊張していた。
はちみつを溶かし込んだホットミルクを、座るとしんどいからという理由で立ったままコクコク飲んでいる主様。間もなく母親になるとは思えなく、むしろ主様こそ幼な子に見えてくるような、無邪気で愛くるしい微笑みを浮かべている。
「ふぅ……美味しかった。ありがとう、フェネス」
「いえいえ、どういたしまして。それでは洗い物を済ませてしまいますね」
ミルクパンとカップを洗っていると、あのね、と小さな声で主様は話し始めた。
「私、本当は赤ちゃんを産むのが怖かったの」
思わず動きを止めて主様に目を向けた。
「ひとりで産むのが怖くて、マタニティブルーっていうのかな? 急に不安になったり、泣きそうになったり」
「主様……」
「多分あのままひとりだったら、こうやって、あたたかい飲み物で気分を落ち着けようという気すら起こらなかったと思うの。
少しでも私に変化があるとしたら、フェネスたちに出会えたおかげかな。ありがとう。ひとりぼっちにしないでくれて」
小さなお身体で、そんな想いを抱えていらっしゃったのか……辛かっただろうな……。
「話してくださってありがとうございます。俺なんかでも少しは主様のお役に立てているようで嬉しいです」
ふふふっ、と笑った主様は、
「これからも親子ともどもよろしくお願いします」
と言って頭を下げた。
産後、すぐに亡くなってしまったけれど。
主様が残してくださった赤ちゃん——今の主様——がいるから、俺たちも頑張っていられます。
お題『相合傘』
街でマドレーヌを買い、菓子屋を出ると雨が降っていた。
「主様、傘に入ってくださいませ」
店の軒先で傘を広げたところ、主様は眉間に皺を寄せて何かおっしゃっている。約50センチの身長差にざあざあという雨音が加わり、主様が何をおっしゃっているのかさっぱり聞き取れない。俺はしゃがんで主様の目の高さまで降りた。
「いかがなさいましたか?」
「今日も傘、一本しかないの?」
「はい。そうですが……」
主様さえ濡れなければ俺としては何も問題はないので、雨の予報を知っていても傘は一本あれば十分だと思っていた。しかし主様にはそれが気に入らなかったらしい。
「私はフェネスに濡れてほしくない。だって風邪ひいちゃったら大変だもん」
頬を膨らませている可愛らしい主様に、俺は「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。
「主様が風邪をひいてしまう方が大変です。それに俺は風邪を引くほど弱くないので」
そう言ったタイミングで鼻がムズムズして、くしゃみをしてしまった。
「ほら、大丈夫じゃないじゃないの。フェネスが寝込んだら私が悲しい」
頑なに動こうとしない主様だけど、雨もしばらくは止みそうにない。うーん、どうしよう……。
……あ、これならばご納得いただけるかもしれない。
「それでは主様は傘を持っていただけませんか?」
「だから、フェネスが濡れるのが嫌なんだって」
「ええ。ですからいいことを思いついたので、俺に任せてください」
俺は主様を腕に抱き抱えると、主様のお腹の上に焼き菓子の袋を置き、それから開いた傘を持っていただいた。
「これなら主様も俺も濡れません」
俺に抱っこされた主様は傘と俺を見比べてている。
「こーいうの、あいあいがさ、っていうの?」
「俺なんかと相合傘はお嫌でしょうか?」
すると、きれいに結われた三つ編みがふるふると揺れる。
「どうせなら馬車まで遠回りして帰りたいなっ♪」
むしろご機嫌といったところらしい。俺はその提案を受け、最短の大通りではなく一番遠回りとなる路地裏を選ばせていただいた。
お題『落下』
主様の姿が消えた。
朝お目覚めの時にはいらっしゃったし、衣装担当の執事・フルーレがお召し替えのお手伝いに行った際にも確かにおられたらしい。
俺が朝食のご案内に伺うまでの僅か5分程度の間に、忽然と消えてしまったのだ。
そういうわけで現在屋敷は騒然となっている。
手の割ける執事全員で屋敷の地下から3階まで、それと別邸まで探したけど、どこにもいらっしゃらない。残るは庭か、と思った矢先に庭師の執事・アモンが「主様が!!」と叫び声を上げた。
アモンの声がしたエントランスホールの外に向かえば「ふぇ……」と主様のか細い声が降ってくる。そこにはなぜか桜の木にぶら下がる、主様の姿が。
「梯子を持ってくる」
ハウレスがそう言い残して屋敷に入っていったけど、待っている間に主様のぶら下がっている桜の枝は、ミシリ、と嫌な音を立てた。
それ以上待っていられなくて俺は主様の真下に構えると上に目をやる。
「やだ! パンツ見えちゃう!!」
「そんなことを言っている場合ではありません! 主様、その手を離してください!!」
「そんなことしたら落ちちゃう!!」
「俺が受け止めます! 俺を信じてください、主様!!」
かくして梯子の到着を待たずして、主様が降ってきた。
「主様、どうやって木の上にいらっしゃったのですか?」
マナー担当の執事・ベリアンさんがミルクティーを淹れて半泣きの主様に尋ねる。
「まどから外に出たの……」
「あのようなところで何をなさっていたのですか?」
「……さくらんぼ」
ベリアンさんと俺は顔を見合わせた。
「美味しそうなさくらんぼを取ったら、みんな喜んでくれるかな、って」
ああ、そういえば昨日の夜、俺は主様に美味しいさくらんぼの見分け方をお教えしたのだった……。
「すみません、ベリアンさん、俺が……」
「いいえ、フェネスくんのせいではありませんよ。
主様。執事を代表してお礼を言わせてください。お心遣い、ありがとうございます。ですが主様の身体にもしものことがあれば、みんなが悲しみます。だから、二度と窓から外に出て木登りをしないとお約束いただけますか?」
ベリアンさんの言葉が心に染み入ったらしい。主様の口から小さく「ごめんなさい」という言葉が出てきた。
数日後。
「フェネス! 私を受け止めて!!」
「あ、ああ、主様!?」
窓枠を伝うことなどせず、正々堂々と地面から桜の木によじ登った主様を、俺は再び受け止めるのだった。